古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

科学万能主義による視野狭窄を露呈/立花隆『臨死体験』その二

 この本を批判するために別の本まで読む羽目となってしまった。これから書くので何とも言えないが、あと数回続くかも知れないことをお断りしておく。


 体外離脱の体験はいずれも面白いのだが、信憑性となると随分と危ういものも含まれているそうだ。また、本人は体外離脱した心算になっているが、耳から情報が入ることも考えられるという。


 学者というのは客観的な観察法を訓練されているので、それなりに信用度が高いようだ。そこで精神医学の父C・G・ユングの体験が紹介されている。ユング心筋梗塞に続いて足を骨折した際の出来事である。

 私は宇宙の高みに登っていると思っていた。はるか下には、青い光の輝くなかに地球の浮かんでいるのがみえ、そこには紺碧の海と諸大陸がみえていた。脚下はるかかなたにはセイロンがあり、はるか前方はインド半島であった。私の視野のなかに地球全体は入らなかったが、地球の球形はくっきりと浮かび、その輪郭は素晴らし青光に照らしだされて、銀色の光に輝いていた。地球の大部分は着色されており、ところどころ燻(いぶし)銀のような濃緑の斑点をつけていた。


 一度でも地球の写真を見たことがあれば、それが記憶に刻印されて錯覚を覚えたという反論もあろう。だが、「地球は青かった」とガガーリンが言ったのは、ユングの体験から16年後のことなのだ。ユングが見たという光景は、1500kmの高さからしか見ることのできないものだった。


 死に至る時、財産や地位などは何の役にも立たない。全てを毟(むし)り取られて鍋に入れられようとしている鳥みたいなものだろう。臨死体験ではそうした自覚が強烈に喚起されるようだ。生前の一切の虚飾をはぎ取った後に残るものは何か? 最後の最後、ギリギリのところで残されるものは何か? これこそ“私”であるとユングは語る。確かにそうだろう。人は生きてきたようにしか死ねないのだから。世間はごまかせても自分を偽ることはできない。どこぞにいるかわからない神様に嘘をついたとしても、自分だけは騙(だま)せない。自分の生きてきた足跡が、純粋極まりない実感となって生命に焼き付けられるのだろう。


 上巻の前半は臨死体験について好意的な記述が目立つ。ケネス・リングが「臨死体験の説明原理は、臨死体験のすべての様相を一挙にきれいに証明できるものでなければならない」としているのに対して、立花は「前提そのものがおかしい」と反論する。「世のいかなる現象であれ、現象というものは、単一の原因で起きるものもあれば、複数の原因が複合して起きるものもある。後者に対して、単一の説明原理を求めても、無理というものである」と。ここではこれほど真っ当なことを書いておきながら立花は後半で自家撞着に陥る。ケネス・リングがいみじくも科学の役割を教えてくれる。科学とは説明原理なのだ。変化の様相を捉えることが科学の使命であり、そこに落とし穴もある。つまり、説明できないものは全て否定するという科学絶対主義に陥り易いということだ。科学はHow(いかに)に応じ、宗教はWhy(なぜ)に答えると言われる所以(ゆえん)はここにあるのだろう。


 次に挙げるのはフィンランドのラウニ・リーナ・ルーカネン・キルデ医学博士。この人物も体外離脱経験者である。

「エネルギー体と肉体との関係は、運転手と車の関係にたとえられるのが一番いいんじゃないかと思います。車から降りても運転手は生きているわけです。この関係において医学は何をしえいるかというと、事故が起きたりしたときの救急活動をするわけですが、事故現場にかけつけても、運転手のことはほったらかしてでもっぱら車の手入れをしているだけなのです」


 この考え方はなかなか巧みであると私なんぞは思うのだが、立花はどうしても“意識”に引き摺られた思考を捨て切れない。意識が全てであるという錯覚が、果てしない生命の広がりを脳の中に閉じ込めようとする始末だ。


 私が臨死体験に興味を持つのは、体験後の人々の人生観が決定的に変化するところだ。様々なアンケートが紹介されているが、「他人を助けたいという気持ちが増加した」「スピリチュアルなことに対する感心が増した」「宗教的感情が増加した」「生命の尊厳感が激増した」(ケネス・リングの調査による)などという共通した内容が、平和に直結しているように思えてならないのだ。

「人間が健康な状態にあるときの日常的な目覚めた意識があると、それにおおい隠されていて見えない現実が、そのような(臨死体験の)状況下ではじめて見えてくるということがあるのではないかということです。それはちょうど夜になると空に星が光っているのが見えてくるようなものです」


 ケネス・リングの答えに立花はこう反論する――

「しかし、その比喩が成立するためには、肉体が死んでも何らかの認識能力がなければ存続すると考えなければなりません。


 私は、死を学ぶことは生をより輝かせることに通じていると考える。一度限りの人生をどのように完結させるのか。それこそが人間として最も重要なテーマであり、それを追求する生き方こそが万人の生をかけがえのないものにしてゆくのではないか。


 立花を見ていると、“脳”という牢獄に拘束された要素還元主義者に見えて仕方がない。


立花隆『臨死体験』その三