『臨死体験』をめぐる書き込み 2

赤マント

 意外どころじゃないッスねー。全然知らなかった。


 立花の「生、死、神秘体験」の「序論と解題」に以下のようなくだりがあります。

 空海の晩年の著作『秘蔵宝鑰』は、空海密教理論の精髄をなすものとして知られている。その冒頭の序に次のような一節がある。


“生れ生れ生れ生れて生の始に暗く
 死に死に死に死んで死の終に冥し”
 

 生と死の向こう側は人間にとって同じように永遠の謎なのである。


 近代の科学主義によって立つ人は、死の向こう側には何もない、従って謎もないというであろう。そういうのはたやすい。だがそういい切ったとたんに、心の片隅で本当にそうなのだろうかという疑いが首をもたげてくる。


 我々が知っているこの世界は、生と死という境界線で区切られた内側だけの世界である。我々のすべての知識は、境界内の知見をもとにして得られた知識である。そのような知識をもとにした判断が、境界の外側の異界に対しても通用するのだろうか。境界内で通用する論理が境界の外でも通用するものだろうか。知識とか、論理というものは、それが得られた世界の世界構造を反映するものである。だから、必ずしも異なる世界に適用可能というわけではない。平面幾何学を球面に適用したり、線形方程式を非線形の世界に適用したりすれば、必ず過ちを起す。


 それと同じように、この世しか知らない者の判断を、この世ならざる世界へ拡張しようすると、誤りにおちいる可能性が強いのである。


 それに対して、そもそもこの世ならざる世界などというものはないのだから、そういう考えは誤りだという反論があるかもしれない。しかし、では、その「この世ならざる世界などというものはない」という判断はどこから生まれたのか。それは厳密にいえば、境界内しか見たことがない者の、境界内から得た経験則の、境界外への無原則拡張適用でしかないのである。コロンブス以前、地球は平面だから、地球の裏側などというものはないと信じてきっていた人々と同じなのかもしれないのである。


 先に引いた空海の『秘蔵宝鑰』には、次のような一節もある。
 

“三界の狂人は狂せることを知らず
 四生の盲者は盲せることを識らず”
 

 狂っている人間は、自分が狂っているということを知らないし、あらゆる目が見えない生物は、自分が目が見えないということを、知らない、というのである。


 
 随分長い引用になってしまいましたが、ここは立花隆の基本的なスタンスがはっきり出ているところだと思うのです。このあとさらに死生観の話などが続くのですが、面白いのは本編の山折哲雄との対談です。そこで彼は宗教について、それが人間に与えた大きなもののひとつはコスモロジーだと言います。

「つまり『世界と言うのはこうなっているんだ。』と、実に見事な説明をある一つの体系をもって与えてくれたわけですね。」


 このあと彼は続けて、近代になってその説明が科学の立場から色んな部分でフィクションだということが分かってきた、しかし、それをフィクションにしたけれど、だからといって、科学も一向にこの世界を明解に説明出来ないでいる、と言ってます。物質の最小単位は原子だと言っていたものが素粒子に変わりそうかと思えばさらに小さなクォークというものが発見され、なお、さらに小さな単位があるのでは、という説がある、宇宙論にしても疑問だらけで、ビッグバンで宇宙が出来たとしても、それ以前はどうなっていたのか、ということは全くわからない、と。


 この本の出版もこの対談も、臨死体験の出版の後で行われたのですが、臨死体験はオカルト主義的に過ぎる、という批判に対して科学万能主義を批判しているわけです。当然この本に対してもオカルト主義的だという批判が出たのは言うまでもありませんが。(笑)

赤マント

 私はもっと拡大解釈をしております(笑)。大宇宙そのものが常に変化してやまない。変化しないものは存在しないといってよいでしょう。その変化せしめるエネルギーこそが宇宙を貫いている。それが波のように現われたのが個々の生命体であると考えます。


 それは確かにそうかも知れません。かなり同意できます。ただ、わたしの場合は漠然とそういう感じがする、という程度の理解レベルですが。

赤マント

 科学を中心とする西洋の思考法は帰納法です。これに対して仏法というのは演繹法なのです。わかりやすい例えを挙げますと、西洋では進化論的な考えをします。猿から人間がどのように進化したのか。仏法的な見方はこうです。猿が人間の生命を感じたから人間に進化した。まあ、やや突飛と思われるかも知れませんが、科学の世界と相反するわけでもありません。


「進化するときがくれば進化するのだ」の 今西進化論に少し近いような気がします(笑)。自然淘汰だけの進化説というのはかなり無理が来ていますから、ある部分正しいのかも知れません。進化論に関しても、先ほどの宇宙論と同様、疑問だらけです。

赤マント

 また三諦論で申せば、現在の私と3歳の頃の私とでは、肉体的には全く別個のものであり、目玉の芯までが新陳代謝することによって新しい肉体となっております。更に、性格も全く異なっているでしょう。つまり、仮諦・空諦は全く違うのに、そこには一貫して「私」が貫かれているのです。これが中諦(ちゅうたい)です。


 永井均いうところの〈わたし〉とかなり近いと思います。 彼の『〈こども〉のための哲学』に魂の存在証明の話が出て来ます。 人物Bが拷問にかけられることになりました。そのときある科学者がBの苦痛を取り去るためにこう言います。『お前の記憶を消し去ろう、そして別の実在の人物Aの記憶を移植しよう。』それでBの恐怖は無くなるだろうか、答は否でしょう。では体も入れ替えればどうか、それでも答えは否でしょう。あいかわらず拷問にかけられるのは〈わたし〉だからです。ではそのときの〈わたし〉とはなんだろう?という話です。 (蛇足ですが、この本の中で永井はこのわかりにくい概念の〈わたし〉をじつに見事に説明してます。それは『今度生まれ変わるときは何になりたい』と問われて例えば『わたしは象になりたい』と答えるときの〈わたし〉であると。)

赤マント

 立花が行っているのは、そのメカニズムに迫ろうとしているわけです。私の考えによれば、メカニズムがわかったところで、自分の人生に変化が現われるとは到底、思えません。立花が求めているのは知識に過ぎない。生き方が変化せずしては、価値が無いというのが私の立場です。


 さきほど書いた本の対談で、山折哲雄は――

 私の場合、臨死体験というものは脳の中で起こる現象 なのか、あるいは現実に起きる死の体験の一部なのかという、「あれかこれか」という考え方をあまりとらないんです。それが真であるか、偽であるかを問わず、そういうものを見た、ということが、その人間にとってどういう意味を持つのか。つまり実感のレベルでどういう意味を持っているのか、そこのところが非常に大事だと思うんです。その人にとってはそれで人生観が変わったり、死の恐怖が薄れたりすれば、それだけで意味があったということになるわけです。むしろその点だけが私にとっては重要なのです。


 と言ってます。が、わたしはそのような立場は取らない です(笑)。それが脳の中で起こったことなのか、実際に死の世界を見たのか、そこのところが非常に気になるのです。それを知ってどうなるものでもないかも知れません。でも知りたい。生命のメカニズム、知りたくて堪りません。これは小野さんが批判するところの「ためにする知識」欲かも知れません。


 どこかの評論家がたしか同じような批判をしていました。立花のただ純粋な知性のための、というスタンスはいかがなものか、という内容だったと思います。たしかにそれはその通りでしょう。性欲や食欲が 必ずしも善いことではないのと同じで、知識欲がいいものだとは思いません。それが何かの役に立た なければ何の意味もないでしょう。だから彼が得々と自分の知識欲をしゃべるとき、大食い自慢や、性豪自慢程度に軽く聞き流すことにしています(笑)。

赤マント


 で、先程の永井均の魂の存在証明の話の続きですが、わたしはこう思うのです。そのとき、BとAの脳を交換 したらどうなるのかと。そのとき〈わたし〉は拷問の恐怖から開放されるのではないか、と。つまり永井の〈わたし〉、小野さんおっしゃる「中諦(ちゅうたい)」は脳の中にあるのでは、という立場です。どうでしょう?

小野不一

 つまり永井の〈わたし〉、小野さんおっしゃる 「中諦(ちゅうたい)」は脳の中にあるのでは、という立場です。どうでしょう?


 脳が「生命の座」であることに異論を挟む心算はありません。脳を中心に生命活動が為されていることも、また事実です。


 生きるということをどのように定義すればよいのでしょう? 京都大学名誉教授の佐藤進が『立花隆の無知蒙昧を衝く 遺伝子問題から宇宙論まで』(社会評論社)で、このように書いております。

 生物学的にいえば『生命体が外部からエネルギー源を摂取して生体エネルギーに変え、外部から摂取した物質を自己の生体成分とし、不要になったものを外部に放出する』ことであろう。(149p)


 まぎらわしい表現ではありますが、肉体的に生長してるってことでしょうか。では、なぜ、そうした現象が起こるのか? 仮に脳が機能しているからだとしても、では、どうして脳が機能しているのか? それは「生きている」からではないでしょうか。こうなると仏法の演繹的な思考法と一緒で「生きているから」としか言いようがありません。


 中諦とは目に見えない本質という意味です。目に見えるものは全て仮諦なのです。生命を脳に閉じ込めようとする考えは、人間をモノ化し、機械化するように思います。


 また逆に、脳が全てであると仮定しましょうか。では、人の一生と同等の刺激を与えれば、それが果たして人間らしい人生といえるのでしょうか? 最新号の逆耳にも書きましたが、ベートーヴェンの『歓喜』を聴いた時の感動が、脳を調べることによって判明し、そこから『歓喜』のメロディーを生むことが可能でしょうか?


 更に、思想というものは人生を奥深いところで支えているものです。死後の生命が無いとする立場の方が、迫り来る死に脅(おび)えている人を励ますことができるでしょうか? 死ねば無に帰するという思想から希望を生み出すことはできません。本当に何も無くなるのであれば、世界に存在するであろう苦しみ悩んでいる大勢の人々は、自殺すべきではないでしょうか。


 わからないことをどんなに考えても答は見つかりません。では、どちらの立場を信じるべきなのでしょうか? 次号では、パスカルの賭けの論理を紹介する予定です。

赤マント

 中諦とは目に見えない本質という意味です。目に見えるものは全て仮諦なのです。生命を脳に閉じ込めようとする考えは、人間をモノ化し、機械化するように思います。また、逆に、脳が全てであると仮定しましょうか。では、人の一生と同等の刺激を与えれば、それが果たして人間らしい人生といえるのでしょうか? 最新号の逆耳にも書きましたが、ベートーヴェンの『歓喜』を聴いた時の感動が、脳を調べることによって判明し、そこから『歓喜』のメロディーを生むことが可能でしょうか?


 ここでわたしが言いたかったのは永井による魂の存在証明は不完全である、ということだけです。身体や、記憶を入れ替えてもなお〈わたし〉であるということは魂の存在証明にはならないということです。人間が生きているとき、〈わたし〉は脳の中にある。それは脳を入れ替えたとき〈わたし〉も一緒に引っ越しするだろうと思うからです。ただ、その〈わたし〉は脳内で作られた自己完結的なものなのか、そうではなくそこから出ることが出来るものなのかは、また別の議論です。つまり、人が死んだとき脳の中にいた〈わたし〉も消滅するのか、あるいは宇宙のエネルギーの一部となって、存在するのか、ということです。それは誰にも分らないでしょう。ただ、臨死体験を読む限り、なんとなく宇宙の一部となって存在するような気もしないではない。


 的外れかも知れませんが、小野さんがおっしゃってる中諦とはことは哲学でいう実存主義的なことなのでしょうか。鍛冶屋が鋏を作る前から鋏という本質は存在し、鍛冶屋はそれを形にしたに過ぎない、と。そうだとしても、そうでないにしても、ここに関しては、わたしには何かを言うだけの知識はないです。とても残念ですが。


 入力と出力が1対1で対応しているなら、脳の反応からベートーベンの歓喜を作譜することも出来るでしょうけど、そうでない以上それはもちろん無理です。ただ、小野さんがおっしゃるように近年の脳研究や分子生物学の発展に伴い、生物=有機的ロボットという見方が徐々に蔓延しつつあることは否定出来ませんし、それを認めたくない、という気持ちはわたしにもあります。だからといって、そうではない、と根拠なく否定することはしたくない、とも思うのです。


 更に、思想というものは人生を奥深いところで支えているものです。死後の生命が無いとする立場の方が、迫り来る死に脅(おび)えている人を励ますことができるでしょうか? 死ねば無に帰するという思想から希望を生み出すことはできません。本当に何も無くなるのであれば、世界に存在するであろう苦しみ悩んでいる大勢の人々は、自殺すべきではないでしょうか。わからないことをどんなに考えても答は見つかりません。では、どちらの立場を信じるべきなのでしょうか?|


 ここは大いに意見が分かれるところだと思うのですが、こう信ずれば恐怖から解き放たれるますよ、とか、そうでなければ自殺する人が絶えない、から世界はこうあることにしておこう、というのは小野さんの宗教的な立場のあらわれだと思うのですが、それは言わば、ある種のまやかしではないでしょうか。その人の生き方になんの変化も齎さない知識には意味がない、という立場の延長線上にある考え方だと思うのですが、そこには実は大きな飛躍があるように思えます。キリスト教は当然キリスト教的な生き方を肯定して、そうすれば人々は幸せになる、と説くわけですが、その自ら築いた世界観は地動説や進化論によって次々否定されていくわけです。そのとき教会や信者達がとった立場はまさに目的論的世界観だったのではないでしょうか。小野さんがそうだと言っているのではありません。小野さんの文章にはいつも事実に対する誠実さを感じています。ただ、小野さんがおっしゃる死生観の ここの目的論的な部分がいつも気になるのです。一方、わたしはこの部分に一番小野さんの誠実さを感じもするのです。何故かと言いますと、ある宗教の世界観が目的論的に築かれたものであったとしても目的論的に築かれたものではない、というのが宗教的立場だと思うからです。小野さんのように、まるごとご自分の考えをさらけ出す方もめずらしい。死後の生命という概念が多くの人々を救うか、ということについてはまた別の機会に議論したいと思います。


 最後に全く蛇足ですが、佐藤進先生の生命の定義は実に馬鹿らしいと思います。生きるということを定義するのに、いきなり「生命体が、〜」とは運動を定義するのに「運動物体が〜」と書きはじめるようなものではないでしょうか。

小野不一

 ここでわたしが言いたかったのは永井による魂の存在証明は不完全である、ということだけです。


 仏法でも魂の存在は否定されております。あるのは生命のみです。

 身体や、記憶を入れ替えてもなお〈わたし〉であるということは魂の存在証明にはならないということです。


 五感を通じて外界の情報を認識する主体が「私」ではないでしょうか? 人それぞれの固有を形成している核が「私」であると考えます。

 人間が生きているとき、〈わたし〉は脳の中にある。


「逆耳」にも書きましたが、植物の場合はどうなるでしょう? 生きているのは間違いありません。

 それは脳を入れ替えたとき〈わたし〉も一緒に引っ越しするだろうと思うからです。ただ、その〈わたし〉は脳内で作られた自己完結的なものなのか、そうではなくそこから出ることが出来るものなのかは、また別の議論です。つまり、人が死んだとき脳の中にいた〈わたし〉も消滅するのか、あるいは宇宙のエネルギーの一部となって、存在するのか、ということです。それは誰にも分らないでしょう。ただ、臨死体験を読む限り、なんとなく宇宙の一部となって存在するような気もしないではない。


「私」を「私」たらしめているのが生命ではないでしょうか? 科学というのは因果関係を明らかにする学問といえましょう。では、なぜ「私」は「私」となって生まれてこなければならなかったのか? 人生につきまとう苦悩は「私」であることに起因しているのではないでしょうか?

 的外れかも知れませんが、小野さんがおっしゃってる中諦とはことは哲学でいう実存主義的なことなのでしょうか。鍛冶屋が鋏を作る前 から鋏という本質は存在し、鍛冶屋はそれを形にしたに過ぎない、と。


 実存主義がわかりまへん(笑)。次号のネタを次々と公表するのは気が進みませんが、イギリスのルパート・シェルドレイクという生物学者は、記憶と脳の関係をテレビの画像と受信機に例えております。感動したシーンを見たとしましょう。その画面を翌日、テレビの中に探しても決して見つかりません。テレビは電波を受信するだけです。受信機が無くては画像は映らないが、テレビの中に画像そのものがあるわけではありません。つまり、心は、脳を媒介にして働くとしても、脳そのものではないということなのです。テレビのどこかが壊れてしまえば、画像はきちんと映りません。脳もどこかが破壊されてしまえば、精神に以上をきたします。


 脳に生命が存在するとすれば、科学の発達によって、いつしか生命を創り出すことが可能となるはずです。果たして、それが可能となる日が来るのでしょうか?

 ただ、小野さんがおっしゃるように近年の脳研究や分子生物学の発展に伴い、生物=有機的ロボットという見方が徐々に蔓延しつつあることは否定出来ませんし、それを認めたくない、という気持ちはわたしにもあります。


 それを聞いて安心しました(笑)。

 ここは大いに意見が分かれるところだと思うのですが、こう信ずれば恐怖から解き放たれるますよ、とか、そうでなければ自殺する人が絶えない、から世界はこうあることにしておこう、というのは小野さんの宗教的な立場のあらわれだと思うのですが、それは言わば、ある種のまやかしではないでしょうか。


 では逆に質問させてもらいますが、科学的な知識のどれほどを私達は実際に検証しているのでしょうか? 実際には、それらの知識、あるいは実験結果を信じているだけに過ぎないのではないでしょうか? 事実の上でわかっていることは余りにも少ないのが現実です。地球が丸いということすら、自分の目で確かめた人は殆どおりません。

 その人の生き方になんの変化も齎さない知識には意味がない、という立場の延長線上にある考え方だと思うのですが、そこには実は大きな飛躍があるように思えます。


 飛躍があるのは、私の知識不足と言葉足らずのせいです。

 キリスト教は当然キリスト教的な生き方を肯定して、そうすれば人々は幸せになる、と説くわけですが、その自ら築いた世界観は地動説や進化論によって次々否定されていくわけです。


 道理に合わないところにキリスト教の限界があるのではないでしょうか?

 そのとき教会や信者達がとった立場はまさに目的論的世界観だったのではないでしょうか。


 御都合主義が暴かれた後は、見るも無慙な人間性を無視した振る舞いが現われます。

 ただ、小野さんがおっしゃる死生観のここの目的論的な部分がいつも気になるのです。


 例えば、科学が発達して生命の神秘が次々と明らかにされたと仮定しましょう。では、その時、人によって死ぬ時期が違う理由が解明されるでしょうか? 不遇の死を迎えた人物のことが説明可能になるでしょうか?

 ある宗教の世界観が目的論的に築かれたもので あったとしても目的論的に築かれたものではない、というのが宗教的立場だと思うからです。


 確かにそうですね。それと、因果関係の整合性があるかどうかという点を見逃すことはできないでしょう。

 小野さんのように、まるごとご自分の考えをさらけ出す方も珍しい。


 持ち物が少ないんで、さらけ出す他ないんですよー。

 最後に全く蛇足ですが、佐藤進先生の生命の定義は実に馬鹿らしいと思います。 生きるということを定義するのに、いきなり「生命体が、〜」とは運動を定義するのに「運動物体が〜」と書きはじめるようなものではないでしょうか。


 そう言われりゃ、確かにそうですね(笑)。但し、この本は所謂、タメにする批判本ではありません。

小野不一

 五感を通じて外界の情報を認識する主体が「私」ではないでしょうか? 人それぞれの固有を形成している核が「私」であると考えます。


 環境の影響を受けながらも、環境に支配されているだけではない。環境と密接に関わりながら形成される主体ってこってすな。

小野不一


 移動した方に「私」も移ってしまうでしょうね。ところがどっこい鏡を見た瞬間、そこには他人がいる。つまり、仮諦と空諦が股裂き状態となります。死ぬまで、元の顔や身体が思い起こされることでしょう。その自覚は、他の身体に入り込んだ「私」というものになるのではないでしょうか? いわば、コスチューム人生。

小野不一

 それは、「私」でありながらも「私」ではない、という不幸この上ない余生になることでしょう。


 つまり、そんなことをやるだけの価値は無いということです

小野不一

 それは、「私」でありながらも「私」ではない、という不幸この上ない余生になることでしょう。


 例外がありました(笑)。互いが互いになりたいと望んだ場合、ある程度の幸福感を得ることができるかも知れません。


 しかしながら、本当の「私」ではないという認識が、死ぬまで本人を苦しめ抜くことでしょう。

小野不一

 この本の出版もこの対談も、臨死体験の出版の後で行われたのですが、臨死体験はオカルト主義的に過ぎる、という批判に対して科学万能主義を批判しているわけです。当然この本に対してもオカルト主義的だという批判が出たのは言うまでもありませんが。(笑)


 不可思議とは、思議し難いが故にそういうのです。全てを知識の範疇(はんちゅう)に収納し、対話を拒否する手合いは必ず「オカルト主義」という言葉を持ち出します。まあ、言って見れば科学万能信仰ってところでしょう。


 科学の出発点は、こうした不思議な現象の中に法則を見出そうとしたところにあったのではないでしょうか。

小野不一

 自然淘汰だけの進化説というのはかなり無理が来ていますから、ある部分正しいのかも知れません。進化論に関しても、先ほどの宇宙論と同様、疑問だらけです。


 ダーウィンの進化論は、キリスト教の最右翼である物見の塔(エホバの証人)が完膚なきまでにやっつけております(笑)。それなりに信用できる内容です。

小野不一

 ただ、小野さんがおっしゃる死生観のここの目的論的な部分がいつも気になるのです。


 目的論的というよりは、意味論的ですな。


 科学は現象を説明し、哲学・宗教は実相に迫ろうとする。それ故、真理は認識の対象であって、それ自体は価値ではありません。

赤マント

 科学の出発点は、こうした不思議な現象の中に法則を見出そうとしたところにあったのではないでしょうか。


 全面的に同意です。あるものを、説明がつかないからと言うだけで、ないもの、にしてしまう態度は科学的からかけ離れた態度ですね。

小野不一

 全面的に同意です。あるものを、説明がつかないからと言うだけで、ないもの、にしてしまう態度は科学的からかけ離れた態度ですね。


 全く仰る通りです。未知なるものに対して留保する勇気が必要だと考えます。

小野不一

 しかしながら、本当の「私」ではないという認識が、死ぬまで本人を苦しめ抜くことでしょう。


 美容整形が胡散臭く感じてしまう原因はここらあたりにあるんじゃないでしょうか。春日武彦の『顔面考』(紀伊国屋書店)でも触れられている。

赤マント

 では逆に質問させてもらいますが、科学的な知識のどれほどを私達は実際に検証しているのでしょうか? 実際には、それらの知識、あるいは実験結果を信じているだけに過ぎないのではないでしょうか? 事実の上でわかっていることは余りにも少ないのが現実です。地球が丸いということすら、自分の目で確かめた人は殆どおりません。


 科学とされているものを信じるのも一種の信仰ではないか、というご指摘ですね。鋭い質問で随分考えさせられました。で、いろいろ考えたり調べたりしました結果、我々が信じているものが信仰か科学事実かは、その対象が反証可能かそうでないか、ということだろうと思います。これはわたしが自分で考えたことではなくカール・ポッパーという人の受け売りです(笑)。(科学事実と書きましたが厳密には科学的仮説ですね)

小野不一

 科学とされているものを信じるのも一種の信仰では ないか、というご指摘ですね。鋭い質問で随分考えさせられました。 で、いろいろ考えたり調べたりしました結果、我々が信じているものが信仰か科学事実かは、その対象が反証可能かそうでないか、ということだろうと思います。


 宗教にしても科学的な態度が求められるのは当然です。科学的な批判に耐えない宗教はまやかしであり、ドグマであり、教条主義であり、単なる気休めに過ぎないものと断ずるものであります(←演説調)。

 これはわたしが自分で考えたことではなくカール・ポッパーという人の受け売りです(笑)。


 それは、まさか、カールおじさんではないでしょうね。口の周りに泥棒のような髭(ひげ)を蓄えていれば、かなり怪しい。

小野不一


 科学的態度は幸福を求める人には不可欠なものでしょう。しかしながら、慎重居士になっていては人生の価値を生むことは難しいとも思われます。


 私達が産まれたばかりの時、果たして母親の母乳の成分を調べた上で飲んだでしょうか? 否です。無心に母親を信じて、口に含んだことでしょう。


 つまり、信じたものに価値があれば幸福になるという一つの証左でありましょう。科学的な態度は後からでも充分、間に合います。


 知るということは大切なことです。それ自体が幸福の一分(いちぶん)であるかも知れません。しかし、なんでもかんでも知った上で我々は行動しているでしょうか? 人生の出来事、全てに対して「石橋を三度叩いて渡る」ような真似をする人は殆どおりません。そうであっては臆病との謗りを免れないことでしょう。


 ましてや人間関係においては殊更そうでしょう。相手を科学的な態度で判じている人などにはお目にかかったことがありません。


 そう考えてみると、人生を支えている大半は「信じる」という行為に他なりません。

小野不一

 科学的態度は幸福を求める人には不可欠なものでしょう。しかしながら、慎重居士になっていては人生の価値を生むことは難しいとも思われます。私達が産まれたばかりの時、果たして母親の母乳の成分を調べた上で飲んだでしょうか? 否です。無心に母親を信じて、口に含んだことでしょう。


 また、テレビを見る時に、テレビの構造を知った上で見ている人など殆どいないでしょう。つまり、テレビを見て楽しめれば好いわけです。

小野不一


 知識という点を考えれば、現代人の知識は、古代人とは比較しようがないほど向上しております。では、現代人が幸福といえるでしょうか。知識を持つことによって、人生の喜怒哀楽が純粋に表現できなくなっていることも見逃せません。


 詰め込み教育が子供達の心に深い翳(かげ)を落としていることも、また事実であります。

赤マント

 つまり、信じたものに価値があれば幸福になるという一つの証左でありましょう。科学的な態度 は後からでも充分、間に合います。


 価値があるかどうかわからない、何を信じていいのかわからない、そもそも何を価値とすればいいのか分らない、という状況があるのだと思います。それがオウムの若者達であり、阪神大震災以降、ボランティア症候群にかかった若者達だろうと思います。災害地に駆け付けてボランティアに没頭している間は充実感を覚えるけどそこから離れると空虚になってしまう、という。もちろん知識や教養がその空虚を埋めることは出来ないでしょうが、既存の幸福論も無効になってきているのではないでしょうか。彼らはきっと何が幸福なのかも分らなくなっていたのでしょう。いま流行りの自分探しってやつですな。

小野不一

 価値があるかどうかわからない、何を信じていいのかわからない、そもそも何を価値とすればいいのか分らない、という状況があるのだと思います。それがオウムの若者達であり、阪神大震災以降、ボランティア症候群に かかった若者達だろうと思います。災害地に駆け付けてボランティアに没頭している間は充実感を覚えるけどそこから離れると空虚になってしまうという。


 確かにそうですね。背景にあるのは高度成長からバブル経済に至る経済的豊さでしょうか。人間は食えるようになると堕落してしまうのか、そんなことが問われているような気がしてなりません。貧・病・争が払拭された後は、英知輝く道が現われると思いきや、中々そうは問屋が卸さない。

 もちろん知識や教養がその空虚を埋めることは出来ないでしょうが、既存の幸福論も無効になってきているのではないでしょうか。彼らはきっと何が幸福なのかも分らなくなっていたのでしょう。いま流行りの自分探しってやつですな。


 その現象の断面に刻印されているのは「生きるに値しない世の中」ということになりかねない。青少年の世界を覆うイジメという現象は、弱い者を痛めつけて平気な獣性をはらんでおります。人類は動物的な生き方しかできなくなりそうな気配すらあります。欲望に火をつける広告社会はまた、感覚を刺激する情報が氾濫し、人間をますます低いレベルに追いやろうとしています。