まどろっこしい本である。臨死体験への純粋な興味がある人は読まない方がいいだろう。私自身、上巻の前半で何度挫けそうになったかわからない。何らかの死生観を持っている人であれ、参考になる体験が数多く紹介されている。だが、立花が展開する論旨は“我が田に水を引く”強引さが丸見えで、実に鼻持ちならない。『宇宙からの帰還』(中公文庫)の頃と比べると、老獪(ろうかい)な印象が強い。
週刊現代で連載されていた「同時代を撃つ!」で【少年の顔写真公開を一方的に批判した言論人たちは決定的に間違っている(1997年7月10日号)】と主張してからというもの、私の中で立花の評価は一気に下落した。それまでの文章から窺えなかった彼の性根を見た思いがしたものだ。
そんな私が本書を手にしたのは、臨死体験に興味があったということと、死後の世界を語る人々の話を立花がどのように受け止めているかを確認したかったことによる。
まず、構成が狡(ずる)賢い。何も知らない人であれば、かなりの確率で立花の主張に洗脳されるだろう。大部分は、臨死体験に必ず伴う体外離脱(幽体離脱と同意/立花はこの訳語が“幽体”というワケのわからないものがあるという前提があることを指摘し、体外離脱が適訳としている)をどう解釈するかということが連綿と綴られている。これには「脳内現象説」と「現実体験説」との二説があり、この間を行ったり来たりしながら、一応、科学的な態度というポーズをとりながら、巧みに自説へと誘導しているのである。
テレビの討論番組でも頻繁に用いられる手だが、意見や主張というのは最後に語られたものが強い印象を残す。番組それ自体は一見、平等な議論を放映しているように演出されているが、きちんと政治的な意図が反映されているのである。どんなに立派な意見があったとしても、最後にその意見への批判が盛り込まれれば、視聴者の印象はどうしたって批判的な意見へと傾いてしまう。
それと全く同じ手口が本書で使われている。つまり、立花が支持する「脳内現象説」の例が必ず後で紹介されるようになっているのだ。また、「現実体験説」の件(くだり)には、必ずといってよいほど非科学的なものを嘲笑う形容が盛り込まれている。
それをそのままストレートに書くのであれば、また立花も可愛げがあるのだが、彼は如何に自分が科学的態度でこの問題にアプローチしているかを見せつけたくてしようがないと見える。
彼の主張は、余りにも科学や意識にこだわり過ぎ、死を狭い枠で捉えることに汲々としている。また、結論的には両説とも、説明しきれない課題があり、死を解明するには程遠い現実が紹介され、自分は死ぬのが怖くなくなったという持論で締め括られている。つまり、私に言わせればこの本は何も書いてないに等しいのだ。読了できたのはひとえに、ここで紹介されていた体験や、臨死体験を研究する学者たちの視点が面白かったからに他ならない。立花の意見なんぞは、読むだけ苦痛という代物であり、最後の最後まで無視したことを記しておく。
老獪(ろうかい)極まりない手法はジャーナリズムの邪道であり、自説に固執する様が既に老人の仲間入りを果たしたことを見事に証明している。立花隆、既に過去の人物である。