パロディの精神とはシニシズムなのであろうか。あらゆるものを見下し、自分を高みに置き、鼻で笑って済ます態度を指すのであろうか。私はそうは思わない。笑って達観してみせる知性は、弱きを助け強きを挫く反権力の思想に裏打ちされているのが本来ではなかったか。
私は本編で揶揄(やゆ)されている宗教団体の一員である。黙っていられようはずがない。
それなりに取材の跡が窺えるが、歴史的な事実の誤認があちこちに認められる。
「訶黎帝母(かりていも/鬼子母神のこと)がわしの守護神なのじゃと?」日蓮はおどろいていった。「夫婦和合の神が、なぜわしの守護神なのじゃ? それは何かの洒落ではないのか?」
日蓮がしたためた真筆の本尊を書写したものを採用しているにもかかわらず、あたかも後世に発案したかのような印象を与えている。
この作品を面白がるような人間は「そんなことは問題ではないのだ」と口にするだろう。読んでいる間だけでも自分がクスクスと忍び笑いができれば満足なのだろう。そうした種類の人間は、笑っている自分の姿を鏡に映してみるといい。
事実はどうあれ笑えればよしとする独善性は、歪んだ思考回路の形成に手を貸してくれる。学校でのイジメが、遊び半分で友を蔑むように笑って幕が開かれるのは、ご存じの通り。
筒井の手に掛かれば、ハンセン病患者も容易に揶揄の対象となるのだろう。身体障害者も小説の小道具にして、ふんだんに思いついた悪ふざけをしてみせるのだろう。彼ほどの技術を持ち合わせていれば、ヒトラーに殺された600万人のユダヤ人の全てを笑い飛ばすことも可能だろう。あるいは、一昔前にアジアを席巻した日本兵に強制されて、衆人環視の中で性行為を強要された父と娘のことまでも、下衆な笑いに転じてみせてくれるだろう。彼は作家生命を賭けて、そうした叙述に腐心するのだろう。彼にとっては、それこそが作家の面目躍如たる証なのだろう。そして彼の言語によれば、そうした行為を“言論の自由”と名づけるのだろう。下劣の見本がここにある。
私はテレビ番組の背景に流される笑い声に誘われるままに同調するような人間ではないので、全く面白く感じられなかった。
冷笑主義は小才氏(こさいし)の得意技と納得できる。私が求める本物の感動は、行間にすら見当らなかった。