古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

「昭和のこどもたち 石井美千子人形展」を見て

 子供たちが――
 笑っていた。
 泣いていた。
 遊んでいた。
 躍っていた。


 人形であるにもかかわらず彼等は1950年代から切り取られた“生”そのものだった。


 冷たく乾いた空気の向こうから柔らかな陽光が降り注ぐ中、錦糸町そごうで催された「昭和のこどもたち 石井美千子人形展」へ行ってきた。


 私が初めて石井の人形を見たのは、ある古本屋でのことだった。ビニールに包まれた写真集の表紙には、胸をはだけて赤ん坊に乳を呑ませる母親と、笑顔で見つめる夫と祖父母の人形が掲載されていた。私は本を手に取ったまま身動きできなくなっていた。凄まじいリアリティに打ちのめされた。人形の細部に至るまでが精緻なのは言うまでもないが、それだけでは説明のできない何かがあった。命を吹き込まれた人形から放出されていたのは、社会が真っ当に機能していた時代の喜怒哀楽だった。


 そして数週間後、偶然見つけた折り込み広告で人形展の開催を知った。


 不思議な感覚が湧いてきた。あの頃の“私”や“あなた”がそこにいた。ああ、そうだったな、そんなこともしていたな……。私よりも一世代前の時代であるにもかかわらず、そういう思いに駆られる。肘(ひじ)の擦り切れたセーター、膝の辺りに縫った跡のあるズボン、もらいたてのお下がりでぶかぶかの洋服等々。人形が着ている衣服は当時のものを使用しているそうだ。微小なメンコや紙芝居まで忠実に再現されていた。


 場内のあちこちで時折声を上げて感嘆している人々がいた。懐かしむという行為は少年時代の純粋さを蘇らせ、自分の根っこを確認する作業にも似ていた。目の前には駆け引きとも打算とも全く無縁な人生が輝いていた。


 作品のキャプションがこれまた素晴らしい。例えば「けんか」と題した作品。一人の子はしゃがみこんで両手の中へ顔をうずめて泣いている。もう一人は、立ったまま、風呂敷マントに包まれ、腕で眼をこすって泣いている。真ん中では「あ〜あ、泣かしちゃった」と気まずそうに笑う少年が佇(たたず)んでいる。



――けんかをするうち 親友になっていた そんな時代の風景です――


 石井は人形作りに関してはズブの素人で、初めは我が子のために作っていた。ある日、個人ギャラリーの個展を開いてはどうかとの声が掛かり、テーマを決めて取り組もうと思い立つ。

 最初に思い浮かんだのが、行き過ぎた管理社会の弊害の中で、ストレスで苦しんでいる40代、50代の社会の中枢を担う人たちのことでした。まさに、わたしと同年代の心悩める人たちです。『彼らが何かホッとできるものを』という思いが、このシリーズの誕生するきっかけとなりました。


【『われら腕白小僧 昭和のこどもたち』石井美千子、井上一写真(小学館、2000年)】


 見る人の心を和ませる作品の数々はこうした石井の胸中から生まれた。


 恐るべきリアリティを支えているのは、美化することを許さぬ創作姿勢であろう。ありのまま、そのままの姿を描き出すことによって人形はあなたとなり私となり得るのだ。


 現代の少年が大人になった時、懐かしく振り返る共通の思い出があるだろうか。ふと私はえげつない想像をしてみた。題して「平成のこどもたち」。展示されているのは塾の看板、コンビニ弁当、ゲーム・ソフト、携帯電話、バタフライナイフ等々。人間が欠落した展示になりそうな気がしてならない。


 鎬(しのぎ)を削る社会でエゴを曝(さら)け出して生きる大人たち。我が子に正義を教える勇気すら失った親たち。サラリーマンと堕した教師たち。社員や下請け企業の犠牲を強いる経営者たち。利権の獲得に余念がない政治家たち。マスコミに次々と汚名をかぶせられる警察官たち――。


 みんな子供だったはずだ。万人が子供だったのだ。そんな当たり前のことに気づかされる。毎日が新しい発見に満ち溢れ、天真爛漫な心で生を謳歌していた“あの頃”を忘れるな、思い出せ、蘇らせよ――人形に託されたのは、そんなメッセージのような気がしてならない。


 汚れた心を人形たちにこすってもらい、微かな光が取り戻せたような思いがした。