古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

科学万能主義による視野狭窄を露呈/立花隆『臨死体験』その四

 前回の原稿を読み直して、ふと妙案を思いついた。脳が無い生き物がいるではないか。ネットで調べたところにはあるようだ。


 だが植物にはないだろう。あったらゴメンなさい。いくら何でもないよなー、という前提にしておく。ミトコンドリアにも無さそうだな。まあ、植物だけでも充分だろう。脳が無くったって生きてるではないか。以上を持って、脳内現象説への勝利宣言とする。お粗末でした。


 生と死は補完し合う関係であるというのが私の考えである。例えば死の無い世界があったとしたら、果たしてどのような状態になるだろうか。この際だから都合の好いように考えることとしよう。極めて健康な状態で、若々しいまま永久に生きる世界である。まずもって完璧な無気力の世界となることは疑う余地がない。努力なんぞは見向きもされないようになり、頑張るという言葉は意味を失うだろう。ということはだ、死そのものが、人間にとっては慈悲のリズムであるということである。つまり、死という区切りがあることによって、生はかけがえのないものになるということだ。


 立花の『臨死体験』を読みながら、胸がムカムカしてきた私は、ヴィクトール・E・フランクルの『死と愛 実存分析入門』(みすず書房)を手に取った。この中に「死の意味」と題した部分が33ページに亘って書かれている。フランクルアウシュヴィッツ強制収容所を経験した精神医学者で、代表作は『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』(みすず書房)。文字通りの地獄を生き延びた人物であるが故に、死を自覚することに関しては常人の及ばぬところであろう。


「死が全生涯の意味を疑問にするということ、すなわち死は結局すべてを無にするから、すべては結局無意義である、といかにしばしば主張されたことだろうか。しかし死は実際に生命の意味性を破壊しうるであろうか、そうではなくて反対である」とし、その結果「あらゆる行為を無限に延期することができる」と喝破している。


 フランクルは生と死を統合的に捉える――

 死は本来生命に属していることではないだろうか。

 運命は死と同様に何らかの形で生命に属しているのである。


 そして個性という幸福の要素が協同体によって生まれるものであるとした上で――

 運命の意味は存するのであり、死と同様に生命に意味を与えるのである。各人はそのいわば排他的な運命空間の内部において他の人にとって代わることはできないのである。この彼の独自性は彼の運命の形成に対する彼の責任を構成するのである。(中略)その独自の運命をもちつつ各個人はいわば全宇宙の中で一人そこにいるのである。


 と論じている。死が生を照らし、運命が生に光を注ぐというのだ。

 運命は大地のように人間に属している。人間は重力によって大地にしばりつけられるが、しかしそれなくしては歩行は不可能なのである。われわれは、われわれが立っている大地に対するのと同様に、運命に対さねばならず、われわれの自由に対する跳躍台としなければならないのである。(中略)たしかに人間は自由ではあるが、しかしそれはいわば真空の空間の中に自由にただよっているのではなくて、多くの誓約の真只中における自由なのである。


 確かにそうだろう。まさしくその通りだろう。立花などに見られる小手先だけの趣味的教養などは吹っ飛んでしまうような力強い思想である。


 私が思うには、死とは眠りに就いている状態のようなものだろう。これじゃあ、あっさりし過ぎかしら? 眠りを“小さな死”としよう。なぜ眠るのか? そこに布団があるからだ。いや、失礼。それは活力を取り戻すためである。眠っている時は何も感じないだろうか? そんなことはない。悪夢にうなされる状態もあれば、薔薇色の夢に包まれることだってあるだろう。死ぬことが大変なのは、どんなに苦しんでいたとしても起こしてやることができないところである。


 古来、人類は不老不死に憧れ、科学技術の進んだ現在では、死後の肉体や脳を冷凍保存する人々まで出てきた。死後の生命は存在するのかという問題は、ある意味で宇宙探検以上の価値があろう。なぜなら、それによって人類の生き方を一変することができるかも知れないからである。死後の生命=迷信的・非科学的と考える向きも多いだろうが、これ自体、証明されてないという点では迷信に過ぎないのである。


 近年になってDNAの研究が盛んになっているが、DNAの中に生命を閉じ込めてしまうような本末転倒が見られる。DNAをつくったのは生命それ自体であり、DNAから生命が生まれたわけではないのだ。立花の論調には一貫してこのような倒錯が散見される。よもや、ベートーヴェンの『歓喜』を聴いた時の脳波を調べることによって、『歓喜』のメロディーが作れると思っているわけではあるまい。


 また、人間に良心が備わっていること自体が、死後の生命を実感として知っている証左といえないだろうか。死ねば終わりとするならなば、見つからなければ何をしでかしても構わないという論理になる。しかしながら、人間性がそれを許さない。善性とは生の永遠性を自覚することによって生まれる人間本来の英知なのかも知れない。


立花隆『臨死体験』その五