森達也インタビュー 7

「洗脳」という言葉の定義が、情緒を停止させ一方向にしか物事を考えない心理状況を示すのであれば、それは境界線の向こう側だけでなく、こちら側にも同量にある。(73p)



【『「A」撮影日誌 オウム施設で過ごした13カ月森達也現代書館)】


――しかし、お話を伺っていて、メディアの側の“不感症”には深刻なものがありますね。


森●「目の前」で見ても、気づかない。例えですけど、カマキリは、動いている虫を食べるから、止まっているものは見えない。動くものは認知できるが、止まっていると、目に見えていても認知できない。


――ははあ。ということは、そういうふうに目を働かせる原理があるはずですよねえ。目の前で見ても気づかない、その欠落は、なんなんでしょう。


森●(間髪入れず)想像力ですよ。たとえばオウム信者がしゃべってる、笑ってる姿を見て、「あ、この信者は笑ってるんだな」「なにか考えているんだな、何だろう」「もしかしたら別れた女のことを考えてるのかな」とか、こちらの側にそういう心の動きがなければ、何言っても届きませんよね。ぼくは、マスメディアの人々の多くは、そういう回路をどこかで閉じちゃっているんだと思う。


――でも、本来メディアって、想像力の回路を開くのがその役割ですもんね?


森●うーん、でも、ニュース報道に典型的ですけど、「事実」を報道して、加害者は悪いヤツ、被害者はかわいそう。それ以上の言及ができない状況になってますよね。もちろん調査報道はあるんですけど、加害者にはこういう同情すべき点がある、被害者にはこういう責められるべき点がある、という報道ってのはまずないですよね。それやったらすごくバッシングにあうし。そういう環境の中で、想像力に蓋をしてきた。
 もっとも、ニュース報道でいちいち「実はこの加害者にはこういう同情すべき点があって」とかやってたらニュースにならないから(笑)、それはそれでいいと思うんですけど、それを補完するかたちで、ドキュメンタリーやドラマが、“グレーゾーン”を扱うべきだと思うんです。
 ぼくは、表現というのはグレーゾーンを描くことだと思っている。単なる紋切り型でこいつが悪い、あいつが善だというのはニュースに任せておけばいい。で、それを補完するうえで、「ちょっと待てよ」というかたちで、ドキュメンタリーのレゾン・デートルがあったような気がするんですけど、いまはドキュメンタリー自体がどんどん少なくなっている。グレーゾーンにも、ドキュメンタリーの存在理由にも、関心を持たなくなっている。どんどん想像力が消え去る方向に、衰退する方向に向かっちゃってると思うんですけど。

メディアの変容と社会の変容


――メディアの変容、という意味でも、オウムの起こした事件ってターニングポイントだったんですね。


森●大きかったと思います。そして、あれ以降、未だに動機がわからない事件が増えている。三浦和義の事件なんて、動機は明らかなんですよ。やった、やんないは別にして、お金であったり、痴情であったり。オウムの事件って、ぼくら結局動機がわかんないんですよ。なんで地下鉄にサリンを捲いたのか。あの後に、ぼくらの中の何かが変質しちゃったような気がするんですよね。


――変質に、気がついたのかも知れませんね。


森●そうですね。動機が不明なまま事件が風化するのはすごくグロテスクな話で、ぼくはそこに不安を感じる。みんなも平気でいられるはずはないんだけど、なにかむりやりこれで終わりにしようってしている気がして。


――刺し殺した後に、「殺した理由をいま考えている」っていうニュースがありましたよね。「なんじゃそりゃ」と思いました。


森●95年以前は、そんなに多くなかったと思うんですよ。貧困なり、怨恨なり、何かしらやむを得ない理由があった。ぼくはそういうことの有機的な関連を分析できないけど、少なくともオウム以降だと思うんです。
 こうなってしまった理由として、考えられるものは二つあって、事件を解釈するぼくらの方が、事件を読み解く力を失ってしまったのかも知れないし、あるいは事件に加担する加害者の方に、盲目的にやってしまう人が多くなったのか。


――多分、両方なんでしょうね。


森●ええ。いずれにしても、今までのように「納得」できなくなっている。社会全体が、常に疑心暗鬼になっている。オウムの事件には、そういう効果もあったように思うなあ。


【「Publicity」より転載】


森達也インタビュー 8