森達也インタビュー 8

(正式退社の日に)本気で言っているのかと思わずまじまじと顔を見つめてしまったが、退社の手続きをしている最中に近づいてきた制作本部長が、「オウムの映像はこちらにも著作権があるとうことを忘れないでくれ」と突然言い出した。
「本気で言ってるんですか? あなたが会社で製作することを拒否したんでしょう」「君が私の言うとおりにしていたら番組として今頃は放送が終わっていたんだ」
 相変わらずの落ちつきのない目線を眺めながら、この男には確実に何かが欠落していると思う。何をどうしたらこんな欠落が為されるのだろう。僕にはわからない。鈍さだけでは説明がつかない。ここまで自分の言動に、一変の揺らぎもなく自信を持てる根拠が、僕にはどうしてもわからない。
 どこかで見た表情だと思う。施設の盗み撮りをしえちた週刊誌の記者が、こんな目つきをしていた。信者を一方的に押し倒して逮捕する警官もこんな表情をしていた。上九一色でハルマゲドンの恐怖について語っていた信者の目にも似ている。何かがすっぽりと欠落している。そしてこの欠落は、コインの裏表のようでもあり、メビウスの帯のようにどこかで繋がってもいる。(142〜143p)



【『「A」撮影日誌 オウム施設で過ごした13カ月森達也現代書館)】


――メディアが社会に果たす役割、というか、その役割に対する自覚というか、つくづく重要ですね。


森●メディアは、世相というか、その社会のメンタリティーに、常にしばられる存在なんです。これには、どうしたって抗えない。だからかわいそうって言やぁ、かわいそうなんだけど。でも本来は、もうちょっと確信犯的に、従いつつも、意表を突く戦い方、表現の仕方があるはず。
 いちばん端的な例は、モザイクとかですけど、――これだけモザイクが多くなったのもオウム以降なんだけど――そうすると何が起こるかというと、対象との関係性をつくるなんてのは誰も考えなくなった。ただ現場に行ってダーッと撮って、帰ってから編集のときに「あ、これまずいからモザイク」って。「この人いちおうインタビューしたけど、声変えてくれ」って。その人を説得して話をきくとか、その地域とどういう関係性を結ぶか、とか、そういう努力があってはじめて映像になると思うんだけど、いまはそういう苦労を誰もしない。それも95年以降。


――そう言えば、「生放送」って減ってると思うんですけど。


森●ああ、生放送は減ってるね。


――ええと、これはバラエティの話なんですけど、ぼくは「8時だヨ! 全員集合」を見て育ったんですが、そういえばあれって生放送だったな、と。


森●10分間停電時件とかあったね(笑)。


――そうそう(笑)、ぼくは毎週死ぬかと思うほど笑ってたんですけど、生放送ならではのエネルギーってあるのではないかと、今思いました。


森●技術的には、録画した後に編集するよりも、生放送のほうが楽なんですよ。技術がどんどん進歩してきたということが一つ。あとは、やっぱり生には「リスク」がありますからねえ。


――リスク回避して、ウェルメイドな方向へ、という傾向をすごく感じるんです。


森●そっちの方が大きいかも知れないね。10分間停電したときに(笑)、「誰が責任取るの?」っていう(笑)。できれば避けたいですよね。

モザイクとテロップ


森●ちょっと前に、釜が崎の街の様子を撮った映像がニュースで流れてた。不況でみんなあぶれてますっていう。全員の顔にモザイクを入れているわけですよ。


――あらあ。


森●あれはねえ……。ちょっと待てよと(苦笑)。考えてくれよ、いま自分が何やってるか考えてごらん、って。どんなに無礼なことをやっているか、全然気づいていないわけですよね。「あ、はいこれ労務者だからモザイク」。「はい、モザイク入れたからいいでしょ、人権は侵してませんよ」。


――うーん、理屈は通ってるんですよね。


森●いちおうね、ただ、モザイクってのは曲者で、いくら顔にモザイク入れても、ぼくがこの恰好で映ればぼくを知っている人には「森達也だ」ってわかる。
 見も知らぬ人にわかんなくても意味ないんですよ。知ってる人にわかるのを避けたいからモザイクをかけるわけで、知っている人にはわかっちゃうから、モザイクってあんまり意味を為さない。だからいま言った釜が崎の映像は、完璧にエクスキューズ。いちおうかけましたよっていうポーズだけですよね。


――テロップもずいぶん多くなりましたよねえ。ぼくはテロップが多くなると、考える力が失われてしまうのではないかと思ってるんですけど。


森●まあ、間違いなくテレビを見る姿勢は変化してきているでしょうね。テロップが入れば、(身を乗り出して)こうやって見ていたものも、(身を引いて)こういう見方になる。
 そもそもテレビの人にとっては映像が命のはずなのに、これだけモザイクを入れられてテロップを入れられて、平気でいる。何ら嫌悪を持たないということは、不思議でしょうがない。カメラマンも含めて、自分たちが撮った映像がぐちゃぐちゃにされて、嫌なはずなんですけどねえ。現場では全身全霊を込めて撮ってるはずなのに。そのへんの感覚が、どこか麻痺しちゃってるのかなあ。


【※この、「感覚の麻痺」に関する象徴的な話を、『「A」撮影日誌』から二つ紹介したい。一つは、麻原の発言について】

 破防法弁明で麻原の陳述に立会人として参加した浅野教授(浅野健一同志社大学)の話では、最後に発言を求められた麻原が、公安調査庁職員に向かって、「破防法を適用しなさい。しかしオウム以外の団体には今後ぜったい適用しないで欲しい」と述べたという話が興味深かった。
 当時のメディアはこの発言についてはまったく報道していない。(中略)
 とにかく少しでもオウムを正当化するような気配のある事実には、全メディアがこうして横並びで沈黙する。今に始まったことではないが。(97p)


【『「A」撮影日誌 オウム施設で過ごした13カ月森達也現代書館)】


 そしてもう一つは、『A』が人口に膾炙(かいしゃ)されるきっかけの一つになった、「不当逮捕」の映像についてである。


 撮影をしている最中、たまたま公安・警察による「転び公妨」の現場を撮影することになる。単行本の112〜113pの下部に掲載されている6枚の写真が、その証拠写真である。


 もみ合いになって、わざと転んで、「公務執行妨害」で逮捕するのである。そんなアホな、とツッコミを入れたいところだが、実際にその映像を見ると、頬が引きつってしまう。物知りの知人にきくと、いわゆる市民運動家や反体制運動をしている人間の身柄を拘束する、権力側の常套手段だそうだ。


 ホントカネ、あんな簡単にいくのかね、と思っていたが、どうもうまくいくらしい。


 というのは、奇妙なことが起こるのだ。明らかに不当逮捕の現場を撮影していることが警察側もわかっているのに、彼らはカメラを止めろとか言わないし、不都合に感じている様子が、少しもないのだ。

 ずっと釈然としなかったこの疑問の答えは簡単だ。拍子抜けするくらいに簡単だ。僕らは彼ら(公安・警察)にドキュメンタリーを撮っていると何度も説明したが、彼らはたぶんテレビクルーと認識したのだろう。そして彼らにとって、テレビは警戒すべき存在ではなかったのだ。マスコミは不当逮捕を見逃す存在として認識していたから、彼らは撮られることを意に介さなかったのだ。(127p)


【『「A」撮影日誌 オウム施設で過ごした13カ月森達也現代書館)】


【「Publicity」より転載】


森達也インタビュー 9