「安楽死」を問う! 3

山野健一郎


 堕胎は、どう考えるのか。堕胎される胎児は、生まれて、生きることが出来ない。堕胎は人為的なものだ。


 人為的な死を認めないなら、堕胎も認めるべきではないだろう。また、人為的な死を認めないなら、人為的な生も認めるべきではないだろう。人為的な生を認めるなら、人為的な死も認めるべきであろう。人為的な生と死の境はどこにあるのだろう。将来、医療技術の進歩により、誰もが人為的に150歳位まで生きることが可能になった場合、死の選択が出来ないとしたら、辛いものを感じる。

yamabiko


 ↑で私が言ったようにおなじ問題です。堕胎の場合は、生を望んでいる可能性が、もの言わぬ本人にあるのに殺しています。安楽死尊厳死、などは、生は終わりにする、と本人が意思表示をするのだからこっちをむしろ尊重すべきでしょう。誰も望まない生を生きるのです。こっちは、可能性ではなく事実です。

山野健一郎


 避妊や堕胎。不妊治療。生の入り口は、既に人為的なものとなっている。死の入り口も、医療技術により、既に人為的なものになっている。


 既に人為的になっている死にもかかわらず、オノレの主体的意志による安楽死という人為的選択が認められないなら、いったい誰の意志により死を迎えるのか。誰の意思も存在しないのか。医師の能力や、さじ加減に任せるという受身的な死だけで良いのか。医療行為を受けるか否かの選択。病院の選択(医師の選択)。治療方法の選択……。選択の仕方によって、死を迎える時期も異なって来る。死が人為的なものであるなら、人為的な死の一つである安楽死が認められても問題ないように思う。

小野不一


 ま−さん、ここは好き勝手書き放題ですから、引き続き、異論・反論、ご自由にお書き込み下さい。


 安楽死・死刑・堕胎、私は全て反対です。


 私は「意思」とは、いのちの一部分ではあっても全体であるとは考えておりません。深層心理学唯識論などでみられるように、意識の奥底には、更なる広大な領域があると信じます。故に、死は生命それ自体が決定すべきことであると思う。

 医師の能力や、さじ加減に任せるという受身的な死だけで良いのか。


 これは逆ではないでしょうか? 苦痛と戦い、苦痛を乗り越える自由を放棄した「受動的な生」と言うべきではないでしょうか?

yamabiko


 自由の放棄がなんで受動的なんだ。逆、だろ、ふつう。積極的、つまり、人間的なんだろ? 犬や猫は、必然しかない。なるようにしかならん、のだ。

小野不一


 死を自由に選択するといえば聞こえはいいが、結局は不自由な生からの逃避に過ぎないのではないでしょうか? 犬や猫であってすら、生を全うしていると私は見る。

greeny


 おはよ。


 私は安楽死賛成、死刑反対、中絶反対。自分たちにとって、生きやすい世の中がよい。


 安楽死法がなくても、密かにそういうことは、これまで同様行われるでしょう。なら、きちんと法のもとでの規制があった方がよいと思う。 これ、アメリカやカソリック国での中絶問題と通じる面ないかしらん。


 ただ、それによって、確かに安易に死の選択をしてしまうことになりはしないか、やはり不安覚えるわ。そして、新薬開発の意欲がそがれるのではないか……??


 犬や猫は不必要にお金かけて、クスリ漬けされて、副作用によるつらい思いなんてしないですよねえ。同レベルで論じれるのかなあ。


 死刑に関して――公開は知ってたけど、それが放映されるとは !! テキサス、アメリカ南部は死刑が多いんだよね。死刑で凶悪犯罪が減るということはないというの、読んだことありますけど、どうなんだろ……。


 李登輝氏にビザを認めるかどうか……。ちょっと待ってよ〜犯罪者じゃないでしょ。すくなくても、日本では。だから、なめられる?? このニュースは気になってま〜す。

greeny


 違う、間違った。中絶反対でなく……中絶は認めるべきだった!!

セイ・オールド男


 迂闊だった。いま『高瀬舟』を思い出した。弟の喉笛の剃刀を抜くか抜かないか。抜けば弟は死ぬ。抜かねば苦しみは続く。兄は意を決して、自分を殺して、弟のために剃刀を抜いてやる。


高瀬舟』は寓意です。抜くのか抜かないのか、このような極限状況で抜いて罪に問われるのか、問われないのか。


 単純な白黒の問題じゃない。愛情が抜くということがあるし、憎しみが抜かないということもある。命が終わるまで行きなさい、というのは、十字架刑がそうです。あれは、ものすごく残酷な刑だったようです。哀れみから、まだ死ねない者の脛を折ることがあったそうです。

yamabiko


 逃避だからエケンのか? クダラン世間から逃避するのは権利、だよ。そもそも、死、を逃避、とみなす発想がふるうて黴ははえとる。よう、それで、小説読んでる、といえるねえ。あきれるわ。


 このよに、カミさんなんかいないんだよ。死にたい、いうたらしなせばいいではないか。余計な口出すんじゃない。


 罪、トカ、法、以前の問題だ。

yamabiko

 死刑に関して――公開は知ってたけど、それが放映されるとは!!


 放映ったって、一般のてれびじゃないでしょうが? 被害者の家族から選ばれたひとが画面でみることができる、だけじゃ? 南洋では、いまでも、公開処刑がおこなわれてるし、某野蛮大国でもそうじゃないの? 米国の映画でもあったよね。女性死刑囚が土壇場になって、死刑が一旦停止、になり、再度逆転して死刑。あの映画では薬物注入だったけど、それを関係者は窓越しに見ていたよ。

 テキサス、アメリカ南部は死刑が多いんだよね。死刑で凶悪犯罪が減るということはないというの、読んだことありますけど、どうなんだろ……。


○減るかもしれない。米国刑務所では死刑以前に、強姦(男同士)が日常的とかいうてたよ。新入りがやられる。あとはずっとやられ放題。

 李登輝氏にビザを認めるかどうか……。ちょっと待ってよ〜。 犯罪者じゃないでしょ。すくなくても、日本では。だから、なめられる?? このニュースは気になってま〜す。


○舐められてるのは昔から。モリが、橋本ニクしで、わざとビザ認めて、はっしーに苦労させようとしている、と週刊誌に。ま、モリに人権意識なんかあるわけないからな。ハッシーは、中国スパイ女性と、またデートするのが楽しみなんだろ? その程度のもんだ。

セイ・オールド男

 犬や猫であってすら、生を全うしていると私は見る。


 この点については反論せねんばならん。


「あってすら」は余計じゃ。お犬様、お猫様に悪い。人間、犬猫に「あってすら」と云えるほど上等な存在ではないのは、人生の経験じゃ。人間であってすら正しく生きようとしているのに、犬猫ともあろうものが、そんなことでどうする、というのが正しい言い方じゃ。冗談で云うのではない。

yamabiko


 ビザ、もそうだが、教科書の口出し。それに、どぎまぎしているアホ政治屋、官僚。野蛮国、がアジアにはまだ多い。検閲を平気で行う、国、官庁、新聞社。浣腸したろう。


 ウチンチの、市役所にも、オウムは住民票受け付けません、なんてタテカン出てた。すくえんわ。

yamabiko


 牛や豚も全うしているんかな? トサツ場で。ストン、と首落とされる。

yamabiko


 人間に飼われている動物で、自然死、するのがなん%ある、おもうん? 保健所や犬猫病院や、大学病院にきいてみる、よろし。種馬、いがいは、注射でコロリ、じゃろ?


 種馬、やる?

山野健一郎


 救急車を呼ぶか呼ばないか。呼びたい人は呼べばよいし、呼びたくない人は呼ばなくてもよい。


 差し迫った緊急時には、それによって生死が決する場合もある。救急車到着までの時間の長短。病院到着までの時間の長短。病院の医療機器の新旧。医師の能力、体力、気力。


 救急車を呼ぶことを選択しても、誰もが同条件、同程度の医療を受ける訳ではない。


 医療を受けるということは、天寿というものに、人為的要素が入り込むこと。自然界にない異物を体内に入れたり、体を切ったり、、、、。これは、天寿に影響ある。また、人間の文化、生活スタイルそのものも、不自然なものであるから、天寿に影響ある。


 知恵という禁断の果実を食べたときから、人間には、天寿(天から与えられた寿命)というものが無くなったと私は思う。


 天寿というものが存在しなければ、天寿をマットウするということも有り得ない。死をどのように迎えるかは、本人や回りの人の選択と偶然の問題であると思う。本人が、具体的な死期(何年何月何日何時)を、わからないことを天寿をマットウしたと、しているだけのように思える。天寿など存在しない。だから、せめて安楽死くらいは、認めたい。

yamabiko


 フランスやイタリヤでは、死んだら自動的に四の五の言わずに臓器提供。くりぬかれる。 ドナーカード?、そんなん、メンドッチイ。


 若くて元気がいいの……みると……ピチピチ、脈動しているのが透けてみえ、涎がでるんじゃそうな。。


 うう。

アルキメデス


 試みに検索サイトに「安楽死」をインプットすると、脳死臓器移植法改正案で反対派の顰蹙をかっている町野朔氏の名がたくさんヒットします。臓器を求めることと安楽死。ふっふっふっ……。

小野不一

 安楽死とは「楽な方法で人工的に死なせること」と辞書にある。だが死んだ後の世界は間違いなく「楽」だろうか。安楽死が社会的に認知されたら、歯痛で死を願う子供が出てくるかも知れない。苦痛を忌み嫌う生き方が社会を覆い尽くしかねない。母親の産みの苦しみを経てこの世に躍り出た私の命は、どんな苦痛よりも尊厳あるものだと確信している。


 以上は5年前に毎日新聞で採用された私の投書。基本的な考え方は変わってない。

yamabiko


 5年前からオカルトやっていたのか。フイツサンは。もう、ええかげんに目覚めるときだろ? 新聞も目覚めるとるぞ。安楽死が社会的に認知されたら歯痛で死を願う子が……。


 てのはオモロイ。死刑が無くなると犯罪が増える……。つのは オモロイか?

セイ・オールド男


 自己の信念と安楽死一般、それと安楽死法を分けて考える必要があります。


 例えば、食事は白米に限る、という信念を自己は持つとします。それを貫くのは自分の勝手です。しかし、それを他者(家族であっても)に強要するのは問題となる。白米を食べるべし、パン食は禁ずる。自己の信念を貫くことは他者の自由の侵害となります。


 更に、白米食に限るという信念と「白米食法」の問題は別です。信念を即法にはできません。それは恐ろしい状況を生みます。自己と他者の間である手続きを踏んだ、合意のもとで「白米食法」は「白米食法」となるのならなります。


 小野さんは、小野さんの信念と、一般の問題、法の問題を分離していますか?

セイ・オールド男


 K・ヤスパースに『運命と意志』としてまとめられたものがあります。いまは手元にはありません。その中で、ご存じの通りヤスパース(ドイツの代表的な実存哲学者兼精神病理学者)の妻はユダヤ人です。ヤスパースナチスかでドイツに留まりました。さすがナチスヤスパース夫人を拉致することはできない。(高名なヤスパースは、ナチスお気に入りのニーチェ、それに、生粋のドイツ的な英雄学者M・ウェーバーの崇拝者)。それで離婚しなさいと盛んに勧める。しかしヤスパース、こう考える。私はナチスの暴力に抵抗し、妻を守ることはできない。押し入ってきたとき。その状況を限界状況とする。ヤスパースは決意する。その時は妻と共に死のう。「共安楽死=心中ともいう」を考え抜いた末に選ぶ。


 小野さんの立場では、否、そんなことはいけません。連れていくのならそうさせて、奥さんに生きるだけ生きて、死ぬときに死ぬ、その「ママ」にさせるべきです、ということになりませんか? 「安楽死絶対反対」の信念を貫くと、そうなります。他者にもそれを強いるとすると、ナチスが押し入るその傍らで、想像の場ですが、小野さん、ナチスのなすに任せる。「共安楽死」をしようとするヤスパース夫妻の拳銃も取り上げるということになる。その後の奥さんの運命はどのようなものか、死ぬより辛い運命が待ちかまえている。

yamabiko


 フイツサンの立場で言えば、信条としては、好き好きにやらせたいが、法律になると、 ワシ死にたい! とポロリと洩らした人がドンドンコロされる、とおもっているのだろう。


 そんなことはあり得ない、ことは オランダの法律の出来る過程や事例をみればわかることだ。

セイ・オールド男


 上記、ヤスパース夫妻は無事生き延びました。様々な手管を尽くした。ナチス下での「自分たちの運命と意志」を日記に記し、それがこの本に収められています。状況の中で「信念」は、決断の一つの要素になります。状況の中で決断します。村上春樹の『クロニクル』に描かれている、生きたままの皮剥拷問。彼は自殺し損なって、捕まり、拷問される。しまったと、私なら思う。死んでおけばよかった、失敗した、痛いな、と後悔する。息が尽きるそれまで。小野さんは「生きたまま皮剥の刑」をするよ、これから、しかし、選択で、ピストルで自殺もできる。すぐ楽になる。どうしますか? と選択肢が置かれたら、信念を貫いて、「安楽死はしません」と、苦痛の極致を羊たちのように受け容れますか? 私なら、ピストルです。

yamabiko


 ↑の、ヤスパースの例が安楽死の問題にどのように関連するのか? わたしにはわからないが。狙撃隊を組織してナチを殲滅しろ!というだろう。拷問されているひとを救出せよ、ということになる。また、被拷問者も、そういう期待があるからこそ生きたい、のであり、人類全体がオノレの死を望んでいる、家族もイナイ、と言う情況で、なにゆえに 生きたい、という希望がもてるだろうか?


 安楽死は全く異なる。八方手を尽くしても治療法がない、のである。あるのに死亡させる医者は犯罪を犯したことになる。(ただし、数千万円あるいは数億円治療に掛かる、というのも治療法がない、になろう)治療法がない、生きているのに苦痛が伴う、高齢である、このようなとき、従容として死につく、家族にも死なせた、という負い目を追わせない、ケア、や哲学こそが必要なのである。何がなんでも生きるのが正しい、考えは、こういうヒトビトや家族にとって、敵である。数年間延命したところでなんになるのか? 苦しませた、という負い目が残るだけ。周囲の冷たい目を避け得た、というだけ。これで満足か?

小野不一

 小野さんは、小野さんの信念と、一般の問題、法の問題を分離していますか?


 当然ではあるが、私は個人的な信念を社会に押しつけるつもり毛頭ない。


 オールドさんが書いている事柄は自殺に関する権利の問題だと思うが、これに対しても、やはり私は反対である。極限状況であっても尚、自分自身の運命と真っ向から戦うべきであろうと考える。ナチスへの服従が自殺かという選択肢は、物事を狭く考え過ぎているようにも思います。現実に生き抜いたユダヤの人々が、どれほど多くの人間に生きる勇気を与えたか計り知れません。


 私が危惧するのは、安楽死が認められようとする社会通念や価値観に対してである。まず、根本的な問題として「本当に、死ねば楽になるのか?」。次に、結果的に、命よりも苦痛を尊厳視することによって、生命軽視の風潮に拍車がかかるのではないかという点。そして、ま−さんが書かれたように、安楽死が当然の権利となった時に、病床に臥していることが多い方々が生きにくい社会となることなのです。そうなってしまえば、慈悲の心から安楽死を認めたことが、かえって無慈悲を生む結果になってしまう。

アルキメデス


大般涅槃経』の雪山偈は「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」でしたね。第三句は死とか、自殺を意味しているわけではないんですよね。生滅(生死)観から解脱すれば、ということです。そうなれば、肉体的な苦痛がなくなる。一方『碧巖録』第四三則に「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼」というのもあり、脳内モルヒネですかね。

小野不一


 アルキメデスさんがチョイト前に引用された中の、「一大事因縁」ってえのは何を指しているんでやんしょ?

小野不一


 雪山偈はその通りなんでやんすが、ありゃあ像法時代の話しでして、末法衆生は機根が違いますからなー。雪山童子みたいなわけにゃ参りませんぜ。

セイ・オールド男

 現実に生き抜いたユダヤの人々が、どれほど多くの人間に生きる勇気を与えたか計り知れません。


「生き抜いた→多くの人間に生きる勇気を与えた」というところがよく分からないのですが。


「あのような状況の中(強制収容所)でもよく生きた例」は、例えば『夜と霧』、小生にも生きる勇気を与えますが。しかし、その殆ど多くはただひたすらの悲惨を偶然の力もあって、死から逃れた、というのではないですか?


 私の考えは、強制収容所に捕らわれた以上、それは運命として与えられたのだから、その運命と向かい合うべきと云うものです。そこで、生を選ぶか死を選ぶかは決断です。その場合、生きることの決断が必ずしもよいとは云えない。彼(ら)にこのようにしろ、そうすれば、お前は生き延びられる、というささやきで、そのものは生きるために云うとおりにする。その生き延びたあり方は、果たして多くの人々に生きる勇気を与えるものか?

セイ・オールド男

 ↑の、ヤスパースの例が安楽死の問題にどのように関連するのか? わたしにはわからないが。


 安楽死を、現在及び、未来の確実な苦しみ、苦痛からの究極的な手段と考えれば、問題として同じです。心中など、親は子供の将来の苦痛からの解放を願っての親の行為と考えることができます。肯定否定は別問題です。人間については分かりにくいかもしれませんが、動物家族の場合、まさにこの問題は切実な問題として目の前に置かれます。死よりも大きな悲惨は、あります。それを思えないのは、想像力が足りないのです。

セイ・オールド男


 苦痛からの→苦痛からの解放の。


 偶然の力もあって→偶然の力もあってすごし。


「過ぎ越の祭り」はユダヤの伝統です。ユダヤ人には堪え忍び、すぎるのを待つ、という、伝統的な力があるのではないか。「コルチャック先生」だったか、なんだったか、ユダヤ人の考えとしてこのような言葉があった。


 小野さん、なにが何でもただ生きるべし、という考えはどれほど残酷な考えになる場合があるか、想像することはできませんか? 遠藤周作の「転びなさい」という、イエスの思想の解釈。小生なら、自分の子供がただひたすらの、想像を絶した悲惨に引かれていくのが分かって、その場に直面したなら、楽にしてあげます。安楽死。これは、信念ではなく心情です。素朴な人間の心情。皮剥拷問を、例えば小生の子供が受ける、その前に選択肢(ピストル)が置かれたら、迷うことなくピストルを選ぶ。これは、安楽死です。ここで、否、あくまで、命が終わるまで生きるべきだと考える人がいて、このような状況でそのように決断するのなら、それは小生には理解し得ない存在です。愛情からは、或いは、自己愛からは、それは考えることができない。できるとすれば、宗教的な価値に重きを置く殉教者。しかし、それは「私ー神」からしかでてきません。「心頭滅却すれば」というものもありますが、それはしかし、自分の子供には貫けないでしょう。

yamabiko

 ↑の、ヤスパースの例が安楽死の問題にどのように関連するのか? わたしにはわからないが。安楽死を、現在及び、未来の確実な苦しみ、苦痛からの究極的な手段と考えれば、問題として同じです。


 安楽死法が想定している情況とは全然異なる。ヤスパースの場合は、原因がハッキリしており、駆除方法も明解だ。安楽死法、は そういうことを想定しているのではない。

 単なる自殺にしか過ぎない。個人が思想的に悩み、窓から飛び降りた、などは誰にも防げないし、法律が関わる問題ではない。

greeny


 強制収容所安楽死の問題は、わたしもやはり別問題のような気がするのですが。収容所内には、たしか外の解放勢力にコンタクトを取ろうとする連絡組織ができてたところもあったのではなかった? やはり、かすかながら希望が……あった。安楽死には、いつか救われる可能性が……ないのですよね。そして、安楽死は、可能性がひたすら零に近い場合のみ許されなくてはいけないということなんですよね。そういう意味では、12歳だっけ、子供に適用される場合もあると……エッエッエッ? と思っちゃうのだけど。


 強制キャンプでカポとか言われる管理する側に回った人たち含めて、生き延びたナチの人たち、わたしもりっぱだと思うな〜 。

セイ・オールド男


 ↑「安楽死」と「安楽死法」は問題を異にする。

小野不一

 あのような状況の中(強制収容所)でもよく生きた例」は、例えば『夜と霧』、小生にも生きる勇気を与えますが。しかし、その殆ど多くはただひたすらの悲惨を偶然の力もあって、死から逃れた、というのではないですか?


 私の書き込みも『夜と霧』を思いながら記したものです。一冊の本に対して、それぞれの人が様々な感じ方をするのは当然である。だが、あの本を読んで「偶然の力もあって」生き抜くことができた、とする考えには異を唱えざるを得ない。フランクルが書きとどめたのは、収容所によって、それまでの生き方があぶり出され、最後の最後に至っても尚、希望を捨てなかった者のみが、かろうじて生き残ることができた、という話しではないのか? もし偶然が入り込む余地があったとすれば、それは、生き続けんとする人間の足元にしかなかったことだろう。

 の場合、生きることの決断が必ずしもよいとは云えない。彼(ら)にこのようにしろ、そうすれば、お前は生き延びられる、というささやきで、そのものは生きるために云うとおりにする。その生き延びたあり方は、果たして多くの人々に生きる勇気を与えるものか?


 どうもオールドさんは「自殺する権利」に論が傾き気味ですね。上記のケースは、話が早い。他人の犠牲の上に成り立つ延命などは、自らの主体的な生を放棄した人間であり、生きるに値する人生など送れるはずがない。そこまで卑劣な手段を使って生き延びる目的は何か? それは、自分の肉体的苦痛を避けるためである。

小野不一

 生き抜いた→多くの人間に生きる勇気を与えた」というところがよく分からないのですが。


 生き抜くことが不可能と誰もが思うような状況下であっても、尚、生きた。生き抜いた。自殺して当たり前のような地獄に耐えて生き延びた。このような方々の経験を知ることによって、生の意味を問い直した人は数え知れない。無気力と戦え、小さな悪を見逃すなという彼等のメッセージは、私の魂に刻印されている。まあ、そんな意味です。収容所のユダヤ人が、全員、自殺したら、こうした声はどこにも届かなかったことでしょう。

小野不一

 小野さん、なにが何でもただ生きるべし、という考えはどれほど残酷な考えになる場合があるか、想像することはできませんか?


 できません。これじゃ、チトあっさりし過ぎか。

 生なら、自分の子供がただひたすらの、想像を絶した悲惨に引かれていくのが分かって、その場に直面したなら、楽にしてあげます。安楽死。これは、信念ではなく心情です。素朴な人間の心情。皮剥拷問を、例えば小生の子供が受ける、その前に選択肢(ピストル)が置かれたら、迷うことなくピストルを選ぶ。これは、安楽死です。ここで、否、あくまで、命が終わるまで生きるべきだと考える人がいて、このような状況でそのように決断するのなら、それは小生には理解し得ない存在です。


 まず、こうした前提で物を考えたことがありません。そりゃ、心情としては理解できますよ。例えば、現実にそうなったとしたら、私は最後まで何があるかわからないから、あきらめることはしない。また、ピストルで殺すことが楽であるとは思えない。その瞬間の苦痛を想像するに、永遠と思えるような時間を感じるようにも思えますが。更に、何度も言うようで恐縮ですが、私は死んだら楽になるという考え方ができないものですから……。

セイ・オールド男

 が、あの本を読んで「偶然の力もあって」生き抜くことができた、とする考えには異を唱えざるを得ない。フランクルが書きとどめたのは、収容所によって、それまでの生き方があぶり出され、最後の最後に至っても尚、希望を捨てなかった者のみが、かろうじて生き残ることができた、という話しではないのか?


 例えば、「選別の手が(ガス室)、彼に触れなかった」というのが、偶然の力です。希望を捨てなかったものも、選別の気まぐれな手が触れれば生きることができませんでした。偶然とはそれを言います。


 私は「収容所に囚われた以上、その運命と向かい合い、生と死は決断の問題だ」という意味のことを云っています。収容所行きになったら、自殺しなさいとは云っていない。ヤスパース夫妻の場合は、文脈が異なります。

 できません。これじゃ、チトあっさりし過ぎか。


 では、噛み合わないな。これも、人間と人間の言葉の行き交いだろう。

greeny


 話しに横槍は申し訳ないと思うのだけど……。ふっと興味覚えたの。


 なら、小野さんはあの実話に基づいた映画 『暁の七人』の若者二人の死、自殺をどう見たの?やはり、生きて拷問にも耐えるべきだったんだろうか。

セイ・オールド男

 現実にそうなったとしたら、私は最後まで何があるかわからないから、あきらめることはしない。


 砂漠のロンメル元帥はヒトラー暗殺に失敗して、「自殺せよ。さもなくば、家族は収容所行きとなる(「知ってるつもり」)」と云われて、自殺した。


 小野さんはこの選択をどう思いますか。私は男らしい選択だと考えています。ロンメルが「殺されるまで生きる、家族については最後までどうなるか分からないから、あきらめることなく、彼らの生きる力と運命の手に任す」と考えるとしたら、人間として軽蔑しますな。子供の、家族の運命を「私」が引き受けるのです。子供に対して「死ぬまで生きなさい」、お前を楽しすることは、最後になにがあるか分からないから、しない」と告げるとしたら、そこで私は子供の運命を自らが引き受けることを放棄したのです。つまり、沈黙した。そこで、全ては子供の手に委ねられる。子供はなにもできない。ただ、苦痛だけが待っている。絶望視ながら、子供は死ぬまで生きることになる。


「他者の苦痛に対する沈黙」がここにあります。


 私の立場ではこれは、非人間的な在り方です。小野さんのお考えはなんとなく分かりました。

セイ・オールド男


 なんだか、同じ問題について話をしているようにみえて、それぞれが、本当は違う問題について自分の考えを語っているように思えてきた。小野さんの問題にしているところと、小生のそれは、実は違うのではないか。


「生きようとする意志」という言葉で考えた時期があります。小生の思秋期を巡ってです。小生人間は生物だと、当たり前のことを云うようですが、そう考えとります。一枚一枚剥がしていくと、生きようとする意志が顕わになってくる。最後のところで、この意志が生かす。そんなことを考えた。その傍をぴたりと絶望が併走するというを知るようになったのは、そう古いことではないですが。果たして知っているのかどうか、それは怪しい。


 自分の生と死観は、生きるだけ生きる、死ぬ時分に死ぬ。癌になったら、身体の自然が、時を告げたのだと考える。その時は生の終わり時と見なしている。近藤氏の「患者よ癌と闘うな」は共感するところ大。しかし、残されたもののことを考えると、そうも云えない。幸い、いまは病らしいものはないが。時分の考えを果たして貫くことができるかどうか、定かではない。私の読みは、小野さんは「生きようとする意志」の一点を強調をされているのではないか、というもので
す。

yamabiko


 自殺のハナシをしているのですか? 自殺と安楽死は全く別。自殺を止める論理はない。するのも勝手(つまり自殺者を処罰してもしようがない。あるいは自殺連座処罰制?でも設けるならば別だろうが。自殺者を出した家族は全員死罪。あるいは財産没収、など。自殺防止には役立とう。もちろん、保険金は一切出ない、とか)


 安楽死は、他殺もしくは自殺幇助をアル場合にみとめる! というのだから議論になる。コレを議論しないのなら、興味なし。

アルキメデス

 アルキメデスさんがチョイト前に引用された中の、「一大事因縁」ってえのは何を指しているんでやんしょ?


「仏家一大事の因縁」ですから仏教者となるにいたった根本の、もっとも大切な因と縁、つまり目的ということになります。生死の真理を自身から明らかにする(=サトリ)ということが根本であると……。