古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

輪廻転生からの解脱/『100万回生きたねこ』佐野洋子

 この作品には思考や価値観を深いところで揺さぶる何かがある。正直に言うと、私はいまだに思いあぐねている。ただ確実なのは、佐野洋子が明らかに何かを破壊しようと企てていることだ。


 私は頭に来ている。この物語を正確に読み解くことができないからだ。まるで、佐野洋子から不敵な挑戦状を受け取ったような気分だ。くわえ煙草で嘲笑する佐野の声すら聞こえてくる。くそっ。


 ねこは100万回生きて、100万回死んだ。ねこは飼い主からは愛されていたが、自分で自分を愛することはなかった。

 ねこは しぬのなんか へいきだったのです。


【『100万回生きたねこ佐野洋子講談社、1977年)以下同】


 なぜ「へいき」だったのか? それは、「本当の自分」ではなかったからだ。死が奪ったのは“与えられた幸福”だけだった。100万回の死は実に呆気(あっけ)なく淡々としたもので、あたかも新聞記事で報じられる死と変わらない。日本の交通事故死者数は5744人(2007年)、2003年以降イラク市民は100万人が死亡している(※ロサンゼルス・タイムスの統計)、という類いと一緒だ。私は眉をひそめたり、わずかな瞬間だけ心を痛めたりする。でも、結局は「他人の死」だ。そこには、皮膚感覚としての痛みが伴わない。

 あるとき、ねこは だれの ねこでも ありませんでした。
 のらねこだったのです。
 ねこは はじめて 自分の ねこになりました。ねこは 自分が だいすきでした。
 なにしろ、りっぱな とらねこだったので、りっぱな のらねこに なりました。
(※カンマを読点にした。以下同)


 ねこは自由を手にした。ねこは「本当の自分」になった。幸せは、「恵まれた環境」にあるのではなく、「生き方を選択できる自由」の中にあった。過去の死は、与えられるものが多ければ多いほど、人生が貧しくなることを象徴していた。「宮中で飼われる猫よりも、野良を目指せ」、「物や金に束縛される人生よりも、無一物の自由を欲せよ」――そんな佐野のメッセージが込められている。


 自由になったねこは、恋に陥り、やがて子を儲ける。

 ある日、白いねこは、ねこの となりで、しずかに うごかなく なっていました。
 ねこは、はじめて なきました。夜になって、朝になって、また 夜になって、朝になって、ねこは 100万回も なきました。
 朝になって、夜になって、ある日の お昼に、ねこは なきやみました。
 ねこは、白いねこの となりで、しずかに うごかなくなりました。


 100万回も自分の死を平然と受け流してきたねこが、初めて愛した伴侶の死に苦しみ悶(もだ)える。ねこは悲しみにのた打ち回った。そして悲しみのどん底で死んでいった。ねこは輪廻転生(りんねてんしょう)から解脱(げだつ)した。


 ここにダブル・トラップ(二重の罠)がある。主人公のねこは自分が死ぬことは一顧だにしなかった。しかし、愛する伴侶を喪った時、初めて「死」はありきたりのものではなくなった。「固有の死」は「かけがえのない生」そのものであった。


 こんなものは珍しくも何ともない。誰かが亡くなれば、その人の周囲にいた人々にとってはいずれも「固有の死」である。思い出が駆け巡り、なにがしかの感慨に浸(ひた)った経験は誰にでもあることだろう。それどころか、仏典によれば、愛欲こそが六道輪廻(ろくどうりんね)の因なのだ。


 ここで初めて気づくのだ。ねこの悟りは、「100万回泣いた」ことであることを。「かなしむ」は「愛しむ」とも書く。ねこは「慈悲の一念」によって解脱を遂げたのだ。


 元来、輪廻思想はバラモン教(古代ヒンドゥー教)が下位カーストを正当化するために編み出した物語だった。そこに仏教が現れ、輪廻から解き放たれる方途を指し示した。これが解脱である。仏の別名に「善逝(ぜんぜい)」とあるのは、二度と生れて来ないことを意味し、「如来(にょらい)」も元々は「如去(にょこ)」と称されていた。ねこの死は、まさしく「善逝」に相応しい。こうなったら如去を「ニャンコ」と呼んでもいいぞ(笑)。


「真の幸福は、どれだけの人に対してどこまで悲しむことができたかで決まる」――そんなことを、ねこは教えてくれる。


【※「悲しむ力」については、山下京子東晋平著『彩花がおしえてくれた幸福』(ポプラ社、2003年)を参照されよ】


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