岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」に学ぶ その一


 興味深い論文を見つけた。今、頭が回らないので何回かに分けて学んでゆきたい。

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 尚、私の所感、意見、反論は学識、教養に基づくものではなく、直観によっていることをお断りしておく(笑)。また表記は「仏陀」を「ブッダ」と改めた。本ブログでは一貫してカタカナ表記としているため。


ブッダ永劫回帰信仰」は、ブッダと接する時間が少なかった弟子、あるいは滅後に仏法と巡り会った人々が寄せた恋慕感情に由来していると思われる。ブッダから直接薫陶を受けた弟子たちが、在りし日のブッダを生き生きと語ることで、恋慕感情はより一層強化され、挙げ句の果てには仏舎利信仰が生まれるに至った。この時、仏は拝まれる対象になったものと推察される。

 前者の円環は実は時間の円環ではなく、単に生と死の繰り返しにすぎない。後者の円環、宇宙論的な円環こそ、本当に永劫回帰する時間の円環というべきである。


 前者=個人の輪廻(生死)、後者=ブラフマー神による世界の周期的再現、としている。ブッダが生まれたのはヒンドゥー教世界であるゆえ、ヒンドゥー的価値観が見受けられるのは致し方ないところであろう。しかしながらそれは、決してヒンドゥー教からの影響を受けたものではなく、ヒンドゥーイズムに支配された人々に通じる言葉で語りかけたという意味である。

 神々が位置する宇宙的な時間は、宇宙の大循環ごとに、つまりあらゆるカルパごとに、まったく同一に回帰する。


 カルパとは劫(こう)のことか? 問題は回帰思想がどこから発生したのかである。繰り返される天体の運行からか、あるいは巡り来る生老病死によるものか、はたまたカースト制度を守ろうと企図したものだったのか。


 多分、正解は3番だ。なぜなら、ヒンドゥーイズムで説かれる過去世、来世はカーストという社会差別を正当化する物語であったからだ。「お前が奴隷として生まれたのは過去世の行いがよくなかったからだ」というわけ。

 ところが、俗なる輪廻の世界の出来事、われわれの生死の時間は、一回性のもので、回帰しない。つまり、聖なる時間に属する出来事は回帰するが、俗なる時間に属する出来事は回帰しないという構造をもっているわけである。


 これは実に巧みな説明でありながら、少々ずるいと言わざるを得ない。「お前が死んだ後も地球は回っているんだよ」という風にしか聞こえない。そうでなければ、輪廻の意味が「歴史は繰り返す」というレベルに下げられてしまう。

 世界の意味を見失った衆生たちに、宇宙の存在論的な企図が明らかにされる。仏陀の生が反復されるごとに、宇宙の至上の存在理由が確認されるわけであり、このため仏陀の降誕は、姿を変えた一種の宇宙の再=創造神話とみることもできなくはない。


 いや、できないよ。ルネサンスは再創造ではなく再生に過ぎないからだ。大体、「降誕」なんて思想は仏教にあるのか? 天にましますのは神であって仏ではあるまい。


 有り体にいえば、輪廻とは生まれる前と死んだ後が存在するのかどうかである。それを世界観や宇宙観に結びつけるべきではない。


 そもそもヒンドゥー教の場合、1劫=43億2000万年である。とすると1劫ごとに輪廻が繰り返されたとしても、我々の認識では「繰り返し」と見なすことが不可能だ。


 仏教が小難しいのは、思想的側面(宗教理論)と行為的次元(宗教行為)の境界を見分けにくいためだ。その上、真の宗教性は別のところにあったりする。


 ブッダは悟りを開いた。そしてブッダは法を説いた。しかし、語られた言葉は悟りそのものではない。だから、ブッダの言葉を手掛かりとしながら、我々はブッダの悟りを探求しなければならないのである。言葉にとらわれてしまえば、ブッダの心を見失ってしまうだろう。


 今日はここまで。