古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

『禁じられた歌 ビクトル・ハラはなぜ死んだか』八木啓代

 これはいい本だ。私がビクトル・ハラを知ったのは、つい最近のこと。友人から教えてもらった。そこで色々と調べている内に、この本に辿り着いたってわけ。


 著者は、中学生の時に何気なく聴いていたラジオから流れてきたビクトル・ハラビオレータ・パラの歌声に釘付けとなる。

 とにかくその瞬間から、確かに私のまわりの世界の色は変わった。私はその日一日、その録音テープを飽きもせずに何度も繰り返して聴き、翌日、生まれて初めてレコード屋に出かけた。


 しかし、どちらの作品も見つからなかった。少女はフォルクローレを中心とする中南米音楽に傾倒し、中南米に関する本を読み漁った。


 大学生となった彼女は、ビクトル・ハラが育てたキラパジュンというグループの来日コンサートへ行く。そして、楽屋を訪ねた。
「私はビクトル・ハラのレコードがほしいんです。どうしたら手に入れることができるんでしょう」
「それならメキシコに行けばいい。いま、あの国に新しい歌の花が咲いているから」


 八木さんはそれ以来勉強に力を入れ、日墨政府交換留学生の一員としてメキシコへ旅立つ。レコードを求める旅はそれで終わらなかった。ここから、ビクトル・ハラという名の山脈を彼女は登ることになるのだ。


 それにしても体当たりの行動力が眩しい。彼女はビクトル・ハラと交友のあった人々を次々と訪ね、インタビューする。遂には、彼女自身が歌手にまでなってしまう。


 ビクトル・ハラは、ラテン・アメリカで起こったヌエバ・カンシオン(「新しい歌」運動)のリーダー的存在だった。1973年9月11日、チリのサンティアゴで軍事クーデターが勃発。多くの市民と共に、ビクトル・ハラは逮捕され、チリ・スタジアムに連行される。彼は市民を励まそうとギターを手に取り、人民連合のテーマ曲「ベンセレーモス」を歌い始めた。

 軍人たちは怒って彼のギターを取り上げた。
 彼は今度は手拍子で歌い続けた。怒り狂った軍人は、銃の台尻で彼の両腕を砕いた。彼はそれでも立ち上がって、歌おうとした。すると軍人は彼を撃った。まるで生き返るのを恐れるかのように、数十発の銃弾が彼の身体に撃ち込まれた。
 そのとき軍人は言ったという……「歌ってみろ、それでも歌えるものならな」


 ビクトル・ハラ逝去、享年41歳――。

「歌の重要さ、というのはね……人々が、それを必要とし、求め、戦うことによって、民衆と深くかかわりあった歌は、インパクトを持つということなんだ。
 その意味でも、ビクトルはひとつのシンボルだよ。民衆にとって必要なことを歌ったがために銃殺された、ジョー・ヒルのようにね」(シルビオ・ロドリゲス

「ビクトルは僕たちにとっていつも闘いの同志であり、仕事の仲間であり、何より大好きな友達だった……そして僕たちはそんな彼を失い、彼は民主主義を求めるすべてのチリ人にとっての闘いの旗印となった。(中略)
 僕たちが彼の曲を歌わない時でさえ、だから彼はグループの中に強烈に存在している。だから、キラパジュンはビクトルとの邂逅の前に生まれたグループであったけれど、芸術家としての歩むべき道、いやもっと深い感動を彼によって与えられたんだ……そして僕たちは芸術家になった。
 たぶん、彼の死に対して僕たちができることは歌い続けることなんだよ。彼の歌を、平和や民主主義のために」(キラパジュンエドゥアルド・カラスコ

「1982年にドイツのボシュロムで、ハリー・ベラフォンテの主催で平和のための大コンサートがあったんだけど、そのときのベラフォンテの講演で彼はこう言ったんだ。『いったい私たちのうちの何人が、自由と平和のために歌い、ビクトル・ハラのような運命をたどることができるだろうか』
 これはビクトルの死から9年たってからのことだ。でも、彼はいまだに国際レベルで存在している……」(インティ・イリマニのホセ・セベス)


 ピノチェトの軍事政権は米国のバックアップで、何と1990年まで続いた。パトリシオ・エイルウィンが大統領になるまで圧政は続いた。この間、ビクトル・ハラの曲はメディアで流すことを禁じられていたにもかかわらず、市民の間で歌い続けられた。


 世界には、まだ本物の人間がいることを知った。