平凡な人間の小さな勇気を描いた屈指の名作/『善き人のためのソナタ』


 良質な小説さながらの余韻を残す傑作。第79回アカデミー最優秀外国語映画賞を受賞した。監督は33歳で、初の長編作品というのだから、恐るべきドイツの才能だ。


 設定が1984年になっているので、ジョージ・オーウェルへのオマージュなのかも知れない。


 東ドイツの徹底した監視システムの下で、善と悪に揺れる人々の心を見事に描いている。


 監視する者が、「善き人のためのソナタ」という曲を聴き、押収したブレヒトの詩集を開き、監視される者が愛し合う囁き声に耳を傾ける。そして、監視する者の心の中に小さな変化が訪れる。良心のスイッチはわずかな音だったが、確実なものだった。


 監視する者は、“守る者”へと変貌した。それは、人間の良心を信じる証だった。監視する者は体制を裏切り、女優は恋人を裏切った。同じ行為だったが、手に入れたものは全く違った。


 この作品があまりにも静謐(せいひつ)に包まれていて、劇的でないことをマイナスと考える人も多いようだが、それは違う。監督が描いたのは、わずかな心の揺らぎによって、人間は善にも悪にも染まるという普遍性なのだ。


 抑圧された政治体制下に、スーパーマンなどいるはずがない。そこにいるのは、平凡で善良な人々と、少しばかり邪悪な連中が大半なのだ。


 ラストシーンは見事である。抑制された分だけ、カタルシスを覚える。平凡な人間の小さな勇気を描いた屈指の名作だ。


【追伸】“監視する者”を演じたウルリッヒ・ミューエが、今年の7月22日、胃癌のため亡くなり、遺作となってしまった。心より哀悼の意を表する。