音楽は元々好きな方だが、38歳にもなると新しい音楽を探し出すほどの体力は既に残ってない。最近は、なんとはなしに昔よく聴いた音楽を流している。邦盤だと、メロディ志向で日本語がよく聞き取れるものがよい。
同郷ということもあって中島みゆきを好んで聴く。ここのところ専ら耳を澄ませているのは『予感』というアルバム。CDの裏側には【90.5.21】とあり、その横には【1986】とある。1986年にレコード化され、1990年にCD化となったという意味であろうか。
「ファイト!」という曲が好きで何度もかけていた。出だしのあたりや、部分的に歌詞が聞き取れない箇所があったので、ライナーノーツを開いてみた。
出だしはこうだ――
あたし中卒やからね 仕事をもらわれへんのやと書いた
女の子の手紙の文字は とがりながらふるえている
ガキのくせにと頬を打たれ 少年たちの眼が年をとる
悔しさを握りしめすぎた こぶしの中 爪が突き刺さる
少女と少年が社会に出るやいなや直面する壁。理不尽・矛盾・嘘。そして力無き者に強いられる我慢と忍耐。私の瞳が十数年前に向けられる。バックに流れる演奏は、まるで心臓の音のように、ゆったりとビートを刻む。ドラムの音が私の心まで刻みつける。
私、本当は目撃したんです 昨日 電車の駅、階段で
ころがり落ちた子供と つきとばした女の うす笑い
私、驚いてしまって 助けもせず叫びもしなかった
ただ恐くて逃げました 私の敵は 私です
そこに至った時、つつーっと涙がこぼれた。汚いものを憎んだあの頃がまざまざと蘇る。不潔なことに抗議できぬ自分すら憎んだあの頃が。瞬時に襲う深き悔恨。
ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ
どうすれば、このようなフレーズが生まれるのだろう?
「闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう」――どこから、こうした言葉はやってきたのだろう? 闘う、という語彙が私の生活の中で使われることが何度あるだろう?
そして、更に純粋なる魂が受けた傷を切々と歌い上げる。
中島みゆきの歌声は決して号泣することがない。さめざめと泣くのだ。その奥床しさがいい。これみよがしに垂れ流される涙ではなく、はらはらと流れ落ちる雫(しずく)なのである。抑制された分だけ、悲しみが深い。閉ざされた唇の向こうに、叫び声が見える。
薄情もんが田舎の町にあと足で砂ばかけるって言われてさ
出てくならおまえの身内も住めんようにしちゃるって言われてさ
うっかり燃やしたことにしてやっぱり燃やせんかったこの切符
あんたに送るけん持っとってよ 滲んだ文字 東京ゆき
小さな夢まで踏みにじられ、少年と少女は大人になることを強制される。だが――
ああ 小魚たちの群れ きらきらと 海の中の国境を越えてゆく
諦めという名の鎖を 身をよじってほどいてゆく
抑制されたヴォーカルが徐々に力強さを帯び、鼓動を思わせていたドラムは、いつしか行進曲を奏でてゆく。
中島みゆきが静かにエールを送る「ファイト!」という声は、あの頃を懐かしむことを許さない。それは、この瞬間、この場から、生き直せとの厳しき叱咤に他ならないのだ。