古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

『クリシュナムルティの神秘体験』の新訳/『クリシュナムルティ・ノート 拡大完全版』中野多一郎訳(たま出版、2010年)


 何と読み終えた今日、発見(笑)。



クリシュナムルティ・ノート

 何が我々をばらばらにしているのでしょうか?
 アイデンティティを死んでやり過ごすとは?
 メディアをやり過ごすとは? 脱落するメディアとは?
 分離不可能な、愛、破壊、死、不可思議な創造とは?
 クリシュナムルティ幻の名著『クリシュナムルティ・ノート』に後に発見された追加32頁を加えた拡大完全版。ついに完訳!

ロバート・カーソン、J・クリシュナムルティ


 1冊挫折、1冊読了。


 挫折38『シャドウ・ダイバー 深海に眠るUボートの謎を解き明かした男たち』(上)ロバート・カーソン上野元美〈うえの・もとみ〉訳(早川書房、2005年/ハヤカワ文庫、2008年)/100ページを超えたあたりで挫ける。これは著者のせいではない。読み物としては多分面白いことだろう。アメリカ沖でUボートを発見。再度アタックする2週間後まで口外しないことを誓い合った。情報が漏れると確実に沈没船は奪い合いの惨状と化すことが予想された。で、翌日、まず一人から漏れた。続いてアル中の首謀者があっさりと友人に語ってしまう。好きなこと、得意なことだけやってきた連中にはこういうのが多い。人間として半端なのだ。明らかに精神を病んでいると思う。こんな連中の冒険を読んでもあまり意味がないと判断した。


 82冊目『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティおおえまさのり監訳、中田周作訳(めるくまーる、1985年)/ついに読んでしまった。ずっと温めていたのだ。親父の一周忌に携え、やっと本日読了。全編これ悟り一色。不可思議な境地としか言いようがない。結局は「諸法実相」ということなのだ。クリシュナムルティの正真正銘の内なる世界があますところなく描かれている。衝撃の一書だ。クリシュナムルティ本はこれで35冊目の読了。

哲学の限界/『現代思想の冒険』竹田青嗣

 昨年の10月から怒涛の如くクリシュナムルティ本を読んできた。そこで感受性の偏りを防ぎ、バランスをとる目的で本書を読んだ。


 結論から述べよう。思想・哲学の無力さがよくわかった。大体、近代思想の多くが西欧から誕生した時点で胡散臭い。キリスト教+経済力という式が見え見えだ。


 本気で哲学と取り組もうとするなら、まず言葉の定義から見直す必要があろう。例えば「世界」という言葉だ。彼等の「世界」と我々日本人の「世界」は明らかに違う。ヨーロッパ人が置かれた世界は「神と向き合う自分」の世界だ。一方、日本人の世界とは「世間」に過ぎない。


 西洋哲学がとにかくわかりにくいのは、我々がキリスト教を信仰していないためだろう。教会、告白、懺悔、三位一体、パンと葡萄酒、偶像崇拝――言葉は知っていても、皮膚感覚を欠いてしまっているのだ。


 その意味で、西洋の思想・哲学とはキリスト教の亜流であると私は思う。日本人にとっての神はアニミズム的色彩が強く、曖昧な豊かさはあっても、思想を吟味する厳しさに欠ける。


 竹田は「世界のイメージ」(世界像)についてこう書いている――

 たとえば学校で勉強の出来る人間は、学者や官吏その他になる道を選ぶし、スポーツの得意な人は、野球選手やオリンピックをめざすだろう。ところが、こういった自分のライフ・スタイルの思い描きそのものが、社会全体のイメージなしには決して成り立たない。それだけではない。ひとは若い頃からさまざまな〈世界〉を思い描いてそれに【憧れる】が、この〈世界〉への感受性のかたちが、友人や仲間との世界を形づくり、その共同性の中での自分の役割を確定してゆくうえでの唯一の土台になるのだ。
 つまりひとが自分のうちになんらかの〈世界〉を思い描くことは、すでに社会の中に存在する〈世界〉の共同性の中に(たとえば文学の世界、芸術の世界、政治の世界、趣味、嗜好、等々)彼を導き入れ、その中で彼が〈自我〉のかたちを作りあげて生きてゆくための、基本の通路となるのである。


【『現代思想の冒険』竹田青嗣〈たけだ・せいじ〉(毎日新聞社、1987年/ちくま学芸文庫、1992年)】


 わかったような、わからないような文章だ。大事なことを言っているようにも見えるし、何も言っていないようにも思える。かような姿勢を私は「悪しきリベラリズム」と呼ぶ。最も顕著なのが漢字の使い方である。妙なところで平仮名を使っているため、かえってわかりにくくなってしまっている。


 このテキストが致命的なのは、世界と世間の違いが示されていない上、「基本の通路」が環境に由来するものなのか、主体性を発揮し得るものなのかが不明なことだ。更に、その通路が変更可能なのかもわからない。必然性と偶然性の影響だって見逃すわけにはゆくまい。


 また、「自我」という言葉も曲者(くせもの)だ。そもそも自我とは発揮されるべきものなのか、あるいは形成されるものなのか、それすらわからない。「かたち」とは書かれているが、全体的なのか、それとも部分的なのか?


 まあ、こんなふうにだね、自分の頭で批判的にものを考えるのが哲学なのだよ(笑)。


 竹田のテキストは期せずして、クリシュナムルティが説く「条件づけ」を見事に描き出している。本書を一読した上で、以下のテキストを参照すればたちどころに理解できよう――


・-断片化の要因/『生の全体性』J・クリシュナムルティ、デヴィッド・ボーム、デヴィッド・シャインバーグ
理想を否定せよ/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一
比較が分断を生む/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ
監獄としての世界/『片隅からの自由 クリシュナムルティに学ぶ』大野純一
深遠なる問い掛け/『英知の教育』J・クリシュナムルティ
内面的な腐敗と堕落/『生と覚醒のコメンタリー 4 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ


 最大の問題は竹田が言う「基本の通路」が、教育という名目で既成概念を押しつけている事実なのだ。「基本の通路」を「自由な通路」「本来の通路」としない限り、人類の歴史は過去の延長線を繰り返す羽目になる。


 哲学は思考の次元で行われる。思考を織り成すのは言葉である。そして言葉はシンボルであって「当のもの」(=そのもの)ではない。つまり、「初めに言葉ありき」(ヨハネ福音書)という聖書の教えが拘束着のように作用しているわけだ。


「創世は神の言葉(ロゴス)からはじまった」――そんなわけねーだろーよ(笑)。で、神の言葉である「光あれ」をビッグバンと結びつける考え方もありそうだが、これは明らかな牽強付会(けんきょうふかい)だ。大体、初めに創造したのは「天地」なんだから、神様が現代宇宙論を知らなかった事実が露呈している。しかもこの言葉自体が矛盾している。だって、本当は「言葉」の前に「神」が存在しているわけだから。


創世記の矛盾
神の支配とは何か?/『イエス』R・ブルトマン


 砂漠で生まれたキリスト教は、自然を征服する対象として見つめるために、自然との交感が欠如している。蛇が悪者になっているのも同じ理由からであろう。西洋哲学にも同じことが言えると思う。


森林の思考・砂漠の思考〈仏教とキリスト教〉


 言葉が構築するのは論理的世界である。世界という言葉は、世界そのものではない。ここに哲学の限界がある。大体、哲学が人を救ったという話を聞いたことがない。哲学が行うべき本当の仕事は「キリスト教の解体」である。


「冬が来るまえに」オフコース


 高校1年の時に買ったアルバム(もちろんレコードだ)に収められた曲。当時の私にとって「ザ・荘厳」といえば、ユーミンの「翳りゆく部屋」かこの曲だった。この年になるとキリスト教的虚仮威(こけおど)しに聴こえなくもない(笑)。




SONG IS LOVE(紙ジャケット仕様)

名前のない悲劇

 キーボードを一心不乱に叩きながら彼女は語る。
「一番大きな問題は私たちのこの悲劇には名前がついていないことです。世界の注目どころか、国内でも無視され切り捨てられている」
 名前さえもついていない問題。確かにコソボ難民という言い方をすれば、ほとんどの外国人はアルバニア系住民のことを指すと思うだろう。


【『終わらぬ「民族浄化」 セルビア・モンテネグロ木村元彦〈きむら・ゆきひこ〉(集英社新書、2005年)】


パレスチナ人を虐殺した司令官の保釈金は何と10円以下

 多くの人は信じられない、と言うかもしれない。あのアウシュビッツを経験した人々が、他人にそんなひどい仕打ちができるはずがない、と。ましてユダヤ人が非武装パレスチナ人を虐殺することなど想像もできないに違いない。しかし現実には、そうしたことがしばしば起こっている。1956年にカセム村のパレスチナ人47人がイスラエル兵に虐殺されたときは、命令を下した最高責任者は「単なる技術上の過失」を犯したとして、実に10円にも満たない形式だけの罰金で釈放された。


【『パレスチナ 新版』広河隆一〈ひろかわ・りゅういち〉(岩波新書、2002年)】


成功がもたらす問題

 成功のもたらす問題は、失敗のもたらす問題とは大きく異なる。


【『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー/上田惇生〈うえだ・あつお〉編訳(ダイヤモンド社、2000年)】