古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

東日本大震災~釜石の奇蹟 生存率99.8%/『人が死なない防災』片田敏孝


『人はなぜ逃げおくれるのか 災害の心理学』広瀬弘忠
『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている 自分と家族を守るための心の防災袋』山村武彦

 ・東日本大震災~釜石の奇蹟 生存率99.8%
 ・釜石の子供たちはギリギリのところで生き延びることができた
 ・津波のメカニズム

『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』岡本浩一
『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』ジェームズ・R・チャイルズ
『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ
『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
『アナタはなぜチェックリストを使わないのか? 重大な局面で“正しい決断”をする方法』アトゥール・ガワンデ
『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』 アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン
『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー

必読書リスト その二

 まず、数字から申し上げます。
 釜石市の小学生1927人、中学生999人のうち、津波襲来時に学校管理下にあった児童・生徒については全員が無事でした。ただし、学校管理下でなかった児童・生徒のうち、5名が犠牲となりました。生存率は99.8パーセントです。
 今、トータルな「数」を申し上げましたが、子どもたち一人ひとりについても、語り継ぎたい話がたくさんあるのです。逃げていくときに、保育園の子どもたちを抱きかかえて避難所まで走った子どもがいました。あるいは、おじいちゃん、おばあちゃんの手をとって逃げた子どもがいました。
 私が震災直後に釜石に入ったとき、「わしゃ、孫に助けられた」と、泣きながら学校の先生に俺を述べていたおじいちゃんがおられました。
 地震直後、釜石に出た津波警報の第一報は、予想される津波の高さ3メートルでした。この情報が、その後、6メートル、10メートルと更新されていくのですが、じつは、3メートルという第一報が出た後に、地域は停電してしまいました。したがって、6メートル、10メートルという続報は住民に届かなかった。そのおじいちゃんも、3メートルという情報だけを聞いて、「ウチの前の防波堤は6メートルだから、大丈夫」と思ったと言います。孫が「逃げよう、おじいちゃん」と言ってきたけれど、「3メートルだから大丈夫、大丈夫」と言ってとりあわなかった。そうしたら、孫が泣きじゃくりながら「じいちゃん、だめだ」と言って腕をつかんだというのです。そうなったら、おじいちゃんはしょうがないですよね。孫が泣いてまで言うのですから。「しょうがないな、じゃあ、行くか」と言って避難所へ歩き出し、しばらく行ったところですごい音がした。後ろを見たら、すぐそこまで津波が来ていた。もちろん、家は津波に破壊されていたそうです。

【『人が死なない防災』片田敏孝(集英社新書、2012年)以下同】


 同じような体験をした大人は他にもいた。

 釜石市では死者・行方不明者が1000人を超えた。8年間にわたる片田の防災教育がなければ被害はもっと大きくなったことだろう。「人が死なない防災」とは単なるスローガンではない。片田に「釜石の奇蹟」を誇る姿勢は微塵も見当たらない。むしろ「敗北である」として我が身を責めている。

 それにしても象徴的なエピソードだ。子供の声に耳を傾けない大人の姿を凝視する必要がある。「孫に助けられた」と泣いた爺さんは、その後、孫の話を聞く姿勢を改めただろうか? そもそも片田の防災講演に対して「いい加減にしてくれ」という住民からの反発があった。地域に対するマイナスイメージを嫌ったのだろう。人は自分の感情を生きる。そして他人の話に耳を閉ざすのだ。大災害ではほんのちょっとした判断ミスが生死を分ける。

 ほとんどの子どもが生き延びてくれたとはいえ、学校管理下になかった5人の子どもが亡くなっています。この子たちには、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。命を守ってあげられなかったのですから。
 5人のうち、2人は病気で学校を休んでいました。1人は、避難している途中で親御さんが迎えに来て、引き渡さざるを得なかった。そして、親御さんと一緒に亡くなっていました。
 もう1人は、下校後に母親と買い物をしているときに被災しています。この子は事情がありまして、かわいそうなことになったと思っています。小学校6年生の女の子で、普段はお父さんと2人で暮らしていました。お母さんは、少し離れた町に住んでいた。そういう家庭環境でした。地震当日は3月11日ですから、中学校に上がる準備をする時期でした。やっぱり女の子ですから、女親と相談して買いたいものもいろいろあったのでしょう。そういうことで、久し振りにお母さんが来てくれることになった。この子は、喜んで職員室に来たそうです。先生も、「行っておいで、行っておいで。よかったね」と言って送り出してあげた。そして、お母さんと買い物中に亡くなっていました。
 そして、もう1人。中学2年生の女の子です。この子に対しては、私には自責の念があります。
 私は、中学生向けの講演でこう言っていたのです。
「中学生は、もう助けられる立場じゃない、助ける立場だ。お父さん、お母さんが仕事に行き、高校生が町の学校へ行ってしまうと、地域に残っているのはお年寄りと幼児ばかりだろう。だから、もう君らは助けられる立場じゃないんだ。地域を守っていく立場なんだ」
 この子は、それを実践して亡くなってしまったのです。しかも、津波ではなく、地震で亡くなりました。
 どういうことかというと、家の裏に、1人暮らしのおばあちゃんが住んでいました。女の子はその家に走っていって、おばあちゃんに「逃げるよ!」と声をかけた。おばあちゃんも、逃げる準備をしていた。それを待っているときに大きな余震が来て、箪笥(たんす)が倒れた。女の子は、その下敷きになってしまったのです。「助けられる立場じゃない、助ける立場だ」と教えられ、それを実行したために亡くなったのです。本当に無念であり、申し訳ないという気持ちでいっぱいです。


「くれた」という言葉遣いがおかしいが、深く関わってきたがゆえの思い入れなのだろう。

 情況は異なるがいずれも大人が子供を殺したと考えてよかろう。よく覚えておこう。大人が子供を殺すのだ。たぶん日常においても同様である。子供の意見を封じ込め、躾(しつけ)と称して抑圧することで我々は子供をゆっくりと少しずつ殺している。そして殺され切った子供が大人になるのだろう。


 冒頭1分前後で二人が取り残されてその後、姿が消えている。釜石に津波が押し寄せたのは地震発生からちょうど30分後であった。

 東北地方太平洋沖地震の発生は14時46分18.1秒で、小さな第一波は数分後、青森で観測されている。気象庁は14時49分に大津波津波警報を発表。大津波は15時15分~16時にかけて到達した。それは警報をはるかに上回る高さの波であった。

 関東大震災(1923年/死者・行方不明者10万5000人)は焼死、阪神・淡路大震災(1995年/死者6434人、行方不明者3人)は圧死、東日本大震災(2011年/死者1万5894人、行方不明者2561人)は水死が主な死因である。

 避けられない死と避けられる死がある。釜石の奇蹟が教えてくれるのはその事実である。

集団同調性バイアスと正常性バイアス/『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている 自分と家族を守るための心の防災袋』山村武彦


『人はなぜ逃げおくれるのか 災害の心理学』広瀬弘忠

 ・集団同調性バイアスと正常性バイアス
 ・エキスパート・エラー

『人が死なない防災』片田敏孝
『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』岡本浩一
『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』ジェームズ・R・チャイルズ
『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ
『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
『アナタはなぜチェックリストを使わないのか? 重大な局面で“正しい決断”をする方法』アトゥール・ガワンデ
『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』 アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン
『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー

 実験を集計すると以下のとおりだった。(中略)
 つまり、【部屋に1人でいた場合は、全員が火災報知機が鳴ってからすぐドアを開けて何か起きていないか確認行動を起こしている。しかし、部屋に2人でいた学生は、1組だけが行動を起こし、ほかの部屋に2人でいた計6人は、火災報知機が鳴っても何の行動も起さず煙に気づいていから行動を起こしている】のである。食堂にいた学生に至っては3分の間、何の行動も起さなかった。
 避難が遅れた部屋に2人でいた学生に聞くと「多分誤報か点検だと思っていた。【まさか火災とは思わなかった】」がほとんどだった。これは食堂にいた学生たちも同じような答えだったが【「皆いるから大丈夫だと思った」】という言葉が付け加えられていた。

 緊急時、人間は1人でいるときは「何が起きたのか」とすぐ自分の判断で行動を起こす。しかし、複数の人間がいると「皆でいるから」という安心感で、緊急行動が遅れる傾向にある。これを【「集団同調性バイアス」】と呼ぶ。先の実験の食堂のように人間の数が多いと、さらにその傾向が強くなる。【集団でいると、自分だけがほかの人と違う行動を取りにくくなる】。お互いが無意識にけん制し合い、他者の動きに左右される。【自分より集団に過大評価を加えている】ことが読み取れる。結果として逃げるタイミングを失うことにもなりかねない。

【『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている 自分と家族を守るための心の防災袋』山村武彦(宝島社、2015年/宝島社、2005年『人は皆「自分だけは死なない」と思っている 防災オンチの日本人』改訂・改題)】


 山村は「防災心理を知っているか知らないか、その違いが生死を分ける」と訴える。本書を読んでいれば東日本大震災を生き延びることができた人々もたくさんいたに違いない。読みながら痛恨の思いに駆られた。災害心理学は新しい学問だが、認知科学に基づいており信頼性は高い。生存者の手記やインタビューの多くは愚行と偶然性に支配されていて読めたものではない。単なる僥倖(ぎょうこう)から他人が学べることは耳かきほどもあるまい。

 人は関係性の中で生きる動物であるため必ず他人からの影響を受ける。集団で生きることが進化的に有利であったとすれば集団に同調することは人間らしさといってよい。行列に連なり、流行のファッションを取り入れ、観光地を旅するのが大衆の姿である。納豆が健康によいとテレビ番組が告げれば、我々は慌ててスーパーに向かう。で、各店舗で納豆が品切れになった頃、番組の捏造(ねつぞう)が発覚するという寸法だ。

 日常会話においても同調は明らかで、話が合う人同士は微細な体の揺れ(ダンス)が一致している。特に若い女性に顕著で双方が頷き合いながら「そうそう」と語る場面を時折目にする。

 そして集団が大きくなればなるほど烏合の衆と化す。一人ひとりの役割が小さくなり無責任になるためだ。

「逃げる」という行為は非日常的である。そこに躊躇(ためら)いが生じる。日本人の場合、みっともないという価値観も混入する。一瞬の遅れが取り返しのつかない過ちとなる。

 加えて、非常時には「こんなことは起こるはずがない」と捉え、現実ではなくヴァーチャルではないかと考える【「正常性バイアス」】が働くことがある。韓国の地下鉄火災に巻き込まれた人々は口々に「まさか火災だとは思わなかった」「みんながじっとしているので自分もじっとしていた」と話していた。まさに、正常性バイアス多数派同調バイアスに捉われていたものと思われる。


 韓国で起こった大邱(テグ)地下鉄放火事件(2003年2月18日)では立ち込める煙の中でじっと座り続けている乗客の姿が撮影されている。


 思考が日常の延長線上から抜け出ることは難しい。しかも五官が捉えるのは部分情報である。全体情報は神の視点に立たなければ見えない。スポイルされた空間は安心感を生む。東日本大震災ではクルマで逃げてそのまま流された人々が多かった。建物や乗り物が認知を歪める。大邱地下鉄放火事件では192人が死亡した(再現動画)。

 人間の知覚には歪み(バイアス)がある。集団同調性バイアスと正常性バイアスは何も災害に限ったことではない。人間関係が濃いコミュニティほどバイアスは強くなることだろう。例えば運動部のしごきや集団暴行、マルチ商法グループの暴走、宗教組織の反社会性など。またあらゆるハラスメントは距離の近い人間に対して行われる。

 異常な集団に身を置けば異常であることが正常となる。そして異常なコミュニティには必ず強い同調圧力がある。出来るだけ多くのコミュニティに所属することが望ましいが、もっと手っ取り早いのは異なる価値観を知ることである。その意味で人と会うことと読書は最大の武器となる。

春秋左氏伝』に「安(やす)きに居(お)りて危(あやう)きを思う。思えば則ち備え有り、備え有れば患(うれ)い無し」とある。備えるとは注意を払うことだ。災害心理学を学ぶことは、安きにいて危機を思うことに通じる。



「戦うこと」と「逃げること」は同じ/『逃げる力』百田尚樹

日常生活における武士道的リスク管理/『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子


『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
『大空のサムライ』坂井三郎

 ・日常生活における武士道的リスク管理
 ・少女監禁事件に思う
 ・高いブロック塀は危険

『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編
『今日われ生きてあり』神坂次郎
『月光の夏』毛利恒之
『神風』ベルナール・ミロー
『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス

日本の近代史を学ぶ

 父は、事あるごとに「前後、左右、上下に注意しろ」と繰り返していました。外に出れば、危険はどこから来るか分からない。まさに「常在戦場」です。上から何が落ちてくるか分からないというのは、パイロットらしい立体的なものの考え方ではないでしょうか。
 歩いていて角を曲がる時でさえ、「内側を曲がらずに、大きく外回りをしろ」というのです。死角には、どんな危険が潜んでいるか分からないからです。そして、ひったくりや暴漢から身を守るために、爪でさえ武器になるのだから、伸ばしておけとも言われました。
 身の回りの道具一つをとってみても、そうでした。
 父の口癖は、「撃てないピストルはただの鉄くずだ。いつでも撃てるようにしておけ」。よく使う道具は、いつでもすぐに手に取れるように一つの箱にまとめ、手近な場所に置き、常に手入れを欠かしませんでした。それどころか、さらに使いやすくするため加工さえする徹底ぶりでした。

【『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子(産経新聞出版、2012年光人社NF文庫、2019年)】


 本書を読んでからクルマやバイクでアウト・イン・アウトすることをやめた。坂井は一人娘に徹底して武士道的な生き方を叩き込んだ。

 危機管理能力は一朝一夕で身につくものではない。何に対して危険を感じるか、どこに危険を見抜くかは、やはり子を保護する親の生き方から自然に学ぶものだろう。私の場合は5人の弟妹がいたため、それなりに危険を見抜く視点は持ち合わせていた。しかし坂井の足元にも及ばない。

 リスク管理という点で大切なことは「同じ過ちを繰り返さないこと」である。「気づく」ことは「変わる」ことを意味する。人は気づいた瞬間に変わっているのだ。時々、何度注意しても同じミスを繰り返す者がいる。周囲や時間に与える影響を理解していないのだろう。前頭葉に問題があるのかもしれないと本気で思う。

 世情を見るに現在は「平和な時代」ではない。戦時ではないものの、社会のあらゆる分野で争いが絶えない。世界に目を転じても、中東での戦争・紛争、中国における少数民族の虐殺、パレスチナに対するイスラエルの横暴など、戦禍といっていい情況が続く。

 ワーキングプア、老々介護、ブラック企業パワハラ、セクハラ、学校でのいじめ、子虐待、ストーカー被害――これらは形を変えた戦争である。すなわち「殺される可能性が高い」。少しずつ時間をかけて扼殺(やくさつ)されているようなものだ。最初の接触で生命の危機を察知しない者は死と隣り合わせにいる。

 弱い者は殺される。強くなくても構わないが、せめて賢くあれ。



エキスパート・エラー/『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている 自分と家族を守るための心の防災袋』山村武彦

キラキラした、もしくはギラギラした人生/『メッセージ 告白的青春論』丸山健二

『穴と海』丸山健二
『さらば、山のカモメよ』丸山健二

 ・キラキラした、もしくはギラギラした人生

『ミッドナイト・サン 新・北欧紀行』丸山健二
『野に降る星』丸山健二
『千日の瑠璃』丸山健二
『見よ 月が後を追う』 丸山健二
『丸山健二エッセイ集成 第四巻 小説家の覚悟』丸山健二
『虹よ、冒涜の虹よ』丸山健二
『逃げ歌』丸山健二
『鉛のバラ』丸山健二
『荒野の庭』丸山健二

必読書リスト その一

 サラリーマンは上からの命令であまりにも立ち入った重大なことが左右され過ぎる。おれが小学校の6年生になるとき親父は転勤を命じられ、おれもいっしょに引っ越しをしなければならず、だがその新しい土地は実にくだらなかった。子どもながらにもおれはひどく腹を立てたものだ。自分の気に入った土地にも住めないなんて、ひどく屈辱的な立場ではないかと思った。世間にはそれがよくあることでも、おれには許せなかった。「この世にはままならないことがたくさんあるのだ」というような忠告には耳を貸したくなかった。
 おれの胸のうちにポカっと穴があいたのは、おそらく自由な生きざまへの入口の扉が開いた瞬間ではなかっただろうか。その計り知れない空しさの奥へ突っこんで行かなければ、キラキラした、もしくはギラギラした人生を歩むことができなかったのではないだろうか。何度でも繰り返すが、それは誰のためでもなくおれの人生だった。だから当然、時間も空間もすべておれのものでなければならなかった。社会的な、あるいは道義的な制約の存在などおれの知ったことではなかった。

【『メッセージ 告白的青春論』丸山健二角川書店、1980年/角川文庫、1985年)】


 一部が『丸山健二エッセイ集成 第四巻 小説家の覚悟』に収められている。こうして見るとあまり書評を書いていないことがわかる。『逃げ歌』までの作品は粗方(あらかた)読んだ。

 私が初めてインターネットの回線を引いたのは1998年のことだ。Windows 98が搭載されたデスクトップパソコンは15万円以上した。パソコンに詳しい友人を伴って秋葉原の電気街を歩き回り、店員を騙して値引きさせたことを憶えている。私は既に友人宅でネット上の丸山健二情報を検索していた。「丸山健二ファンのページ」なるサイトがあって、書き込みデビューもそこの掲示板だった。翌年には読書グルームのサイトを自ら立ち上げ、少し経って「雪山堂」(せっせんどう)なる古本屋を開業した。2000年代初期において丸山健二の古書を最も扱ったのは間違いなく私であった。

 読書チームや古本屋の掲示板を通して実に様々な出会いがあった(『臨死体験』をめぐる書き込み)。元はと言えばこれまた丸山健二を通してつながった人脈だった。男臭い人々が多かったのは当然だろう。はみ出し者とまでは言わないが、少しばかりアウトローの雰囲気を漂わせるタイプが目立った。例外は品行方正を絵に描いたような私だけだ。

 私の父も転勤が多かった。旭川~函館~札幌~苫小牧~帯広と私が生まれてから8年間で四度も引っ越している。嫌がらせの意味もあったようだと後年母から聞いた。業を煮やした父は札幌で独立する。単身赴任という言葉を耳にするようになったのは1980年代のこと。幼い子供にとって転校は深刻な問題である。今までの友達全員を失うのだから当然だ。私も三度転校しているが皆の前に立って挨拶をするのも大きなストレスとなる。北海道内の転校だったから差別のようなものはなかったが、訛(なま)りの異なる地方へ行くことともなれば、いじめられることもあり得るだろう。

 会社の都合で家族が振り回されるというのがサラリーマン一家の宿命だ。嫌なら辞めればいい。そもそも人生の有限を思えば通勤に1時間以上かけるのは馬鹿げている。往復で2時間、つまり1週間で10時間、1年で21日間もの時間を移動に費やすこととなる。

 最近聞かれなくなったサラリーマンとは俸給生活者の謂(いい)である。日本企業の70%を占める中小企業も元請けの言いなりにならざるを得ないという点ではサラリーマンと大差がない。最大の問題は喧嘩ができなくなることだ。譲ってはいけない部分や越えてはならない一線で闘うのが普通だが、サラリーマンは賃金と引き替えにこれを手放す。小さな忍耐を繰り返すうちに家畜のような人生の色合いになってゆく。もう一つは会社という狭い世界の出来事ばかりが関心の対象となり、会社員以外の可能性が見えなくなってしまうことだ。一旦社会の規格にはまってしまうとそこから抜け出すことは思いの外難しい。

 バブル景気が絶頂に差し掛かった頃(1990年)、社畜なる言葉が生まれた。その後登場するブラック企業を想起させる言葉だ。ただし当時はそれほど悲惨な印象を受けなかった。給与は上がっていたし使える経費も多かった。東京ではコンビニエンスストアが次々と開店した。カラオケがブームとなり、外食産業は隆盛の一途をたどった。当時と比べると「魂を売り渡す金額」が明らかに下落している。

 キラキラするのは水で、ギラギラするのは油だ。こんな言葉にも丸山の流動性志向が表れている。その対比は「動く者」と「動かざる者」として『見よ 月が後を追う』 で描かれる。一歩間違えればやくざ者になりかねなかった丸山が二十歳(はたち)で芥川賞を受賞した。彼にとっては短刀とペンの違いでしかなかったことだろう。本書を開くと自立の強風が至るところに吹いている。

モノが少ないほど人生は充実する/『たった1分で人生が変わる片づけの習慣』小松易


・『「捨てる!」技術』辰巳渚
『人生がときめく片づけの魔法』近藤麻理恵
『コミック版 たった1分で人生が変わる片づけの習慣』小松易

 ・モノが少ないほど人生は充実する

・『たった1分で人生が変わる片づけの習慣 実践編』小松易
『人生を掃除する人しない人』桜井章一、鍵山秀三郎

必読書リストその一

 片づけるということは、過去に経験したことや体験したことに【「かたをつける」】ということです。過去に「かたをつける」と現在の自分が変わり、「自分の思い描いている未来」を手に入れることができるようになります。

 片づけは、あなたが思い描いている人生を実現させることのできる身近な方法です。片づけができている人とできていない人の差は徐々に広がっていきます。

【『たった1分で人生が変わる片づけの習慣』小松易〈こまつ・やすし〉(中経出版、2009年/中経の文庫、2012年)】


 掃除が苦手である。もちろん全くしないわけではないが収納の仕方に戸惑い、考えながらも後回しにすることが殆どである。致命的なのは縦方向への意識を完全に欠いていることだ。引っ越した時の段ボールでまだ解いてないのがいくつもある。たぶん化石になっているか、ひょっとすると石油になっているかもしれない。

 200×60cmのパソコンデスクはマウスを動かすのも難儀するほど散乱しており、二つの観葉植物が机から落ちるのは時間の問題と思われる。当然ではあるが拭くことができない。っていうか拭くほどのスペースが残っていない。小ぶりのゴキブリにとっては逃げやすいジャングルと化し、壁に這い上がってくるのを待たねばならない。

 更に私は洗濯物を畳むのを省略する。「どうせ着るんだから畳もうが畳むまいが一緒だろ?」との言いわけが、いつしか確固たる信念となってしまった。でもって出番の少ない物は時折踏んづけてしまい、何度も踏んでいるうちにカンピョウや切り干し大根のような姿に朽ち果てる。

「片づけができている人とできていない人の差」は簡単明瞭だ。できている人は労力と時間が少なくて済む。そりゃそうだよ、だってきれいなんだからね。

 近藤麻理恵よりも文章が巧みで抽象度も高いため必読書を入れ替えた次第である。

「何を捨て」「何を残すか」で人生は決まる


 古本屋にとっては頂門の一針にしたいフレーズである。

 片づけないと「モノ」「スペース」「ヒト」が死んでしまう


 これは古本屋の常識。

 モノが少ないほど、人生は豊かで幸せで充実する


 出家僧が持つことを許されるのは三衣一鉢(さんねいっぱつ)とされる。私は今まで「最低限の所持品」と考えてきたが、「豊かな生のスペースを広げるための小道具」と思い直した。

 日本人が漂泊に対する憧れを抱くのも、物の豊かさが不幸につながることを心のどこかで自覚しているためか。工業製品は製造過程で原材料を必要とし、熱で加工するため必ず環境に負荷を与える。人類が最も森林を破壊したのは製鉄のためであり、硬貨の鋳造が更に拍車をかけた。つまり鉄(かね)とカネだ。

 時代を近代へと押し上げたのはイギリスの産業革命だが、同時に金融革命(ユダヤ資本の確立)・メディア革命(新聞~ラジオ)が起こったことも見逃せない。資本主義経済が高度に発達することで、それまでは欧州内部にとどまっていた戦争が世界に拡散され、やがて二度の大戦へとつながるのである。

「モノが少ないほど人生は充実する」のは真実だろう。ただし、「軍事力が少ないほど国家は侵略される」事実をどう考えるべきか。

天才とは発想力・表現力・論理力を兼ね備えた人/『あなたを天才にするスマートノート』岡田斗司夫


 ・天才とは発想力・表現力・論理力を兼ね備えた人

サインペン、ボールPentel vs. Vコーン、エナージェル、トラディオ・プラマン

必読書リスト

「天才」とはなんでしょうか?
「天才」とは、以下の3つの能力を兼ね備えた人です。

1)発想力
2)表現力
3)論理力

 このそれぞれに関して高い能力を持ち、それが強い主体性によって1つの人格の中にまとまっている状態。
 これを「天才」といいます。

【『あなたを天才にするスマートノート』岡田斗司夫〈おかだ・としお〉(文藝春秋、2011年)以下同】

 


 天才とそうでない人の差については一々説得力のある根拠が示されている。

 発想力と論理力を持つ「改革者」「やり手」。
 彼らが、専門分野を超えて歴史に名前を残さないのは、「本人から話をきいても面白くない」「本を読んでも、楽しくない」からです。
 表現力が不足しているせいです。


 どんどん紹介しよう。

 表現力と論理力を併せ持つ「頭が良い」人たち。
 彼らはそのプレゼン能力で、膨大な影響力を持ちます。
 だけど、なにか新しいものが作り出せるわけじゃない。だから永遠に「いま起きていることの説明」しかできない

 

 あれほど面白い島田紳助にしても、実は新しいことはなにもやっていない。(中略)つまり中身がない。
「わかりやすいけど、意外性がない」
 だから新しい流れが生み出せない。
 発想力が不足しているからです。


 松本人志には論理力が不足しているため、お笑い以外の映画などの分野に挑戦しているが、

「ワケがわからないけど、面白い」ばかりを目指しているから、継続性がない


 というわけで天才を目指すべくスマートノートを活用するのだが至って簡単である。左ページは空けて右ページにメモや抜き書きを記すというもの。左ページには図や絵、閃きなどを書き加える。

 ノートを書くという行為は、「思考を肉体化する」ことです。
 肉体化なので、最初から手書きのクセをつけた方が、効率が良くなります。


 岡田は手始めに5行日記をつけることを勧める。「これは!」と思った私は五十の手習いではないが早速実践した。若い頃に13冊ほど抜き書きをしたことがあるのだが同じ作業は無理だ。なぜなら本を読むごとに無知を思い知り、感受性がどんどん鋭くなっているためだ。しかも悪いことに読むスピードが加速しており、若い頃と比べると3倍ほどの読書量である。

 基本的に私の場合、何もしていない時間がほぼゼロである。ベランダで喫煙したり、湯船に浸(つ)かっている時でも必ず本かクリップボードを持っている。大の用を足している場合も同様だ。つまり書く時間は読む時間を犠牲にしなければならない。

 文字を書くと時間の流れが変わる。もちろんキーボードを叩いた方が速いが、打鍵は身体性に乏しい。私は1998年に初めてパソコンを購入し、4万字の抜き書きを入力してタッチタイピングをマスターした。その後も恐るべき量のタイピングをし続け、7~8年経った頃、腱鞘炎(左の肘痛)になった。掲示板などの書き込みも控えた。よくなったのはごく最近のことである。

 取り敢えず今のところは抜き書きしかしていないが筆記用具と併せて一部を紹介しよう。









 右ページに書くというのは脳の機能から見ても正解だと思う。右手は論理を司る左脳と連動しているからだ。図や絵、閃きを芸術と見なせば右脳から生まれるから左側に書いた方がよい。また色を変えたり、アンダーラインを引くことも五感を刺激する。

 当然ではあるが五十を過ぎた私が天才になることはない。それでも書くのは自分自身を見つめ直すためである。本を読むだけで知は力となり得ない。書いて、話して、聴いてという作業が不可欠なのだ。



      

読書讃歌/『書斎の鍵 父が遺した「人生の奇跡」』喜多川泰


・『賢者の書』喜多川泰
・『君と会えたから……』喜多川泰
『手紙屋 僕の就職活動を変えた十通の手紙』喜多川泰
『心晴日和』喜多川泰
『「また、必ず会おう」と誰もが言った 偶然出会った、たくさんの必然』喜多川泰
『きみが来た場所 Where are you from? Where are you going?』喜多川泰
・『スタートライン』喜多川泰
・『ライフトラベラー』喜多川泰

 ・読書讃歌

『株式会社タイムカプセル社 十年前からやってきた使者』喜多川泰
・『ソバニイルヨ』喜多川泰
『運転者 未来を変える過去からの使者』喜多川泰

必読書リスト その一

 部屋着に着替えた浩平は、ダイニングに行き、料理をしている日菜にカウンター越しに話しかけた。
「ママ、今日俺は目覚めたよ」
「何言ってるのよ」
 日菜は鼻で笑って相手にしなかった。
「本当だ。俺はこれまでの俺の生き方を改める」
 いつになく強い口調に、日菜は手を止めて浩平を見た。

【『書斎の鍵 父が遺した「人生の奇跡」』喜多川泰〈きたがわ・やすし〉(現代書林、2015年)】


 必読書の一冊目にした。本を取り巻く物語であり、傷ついた男性が再生するドラマである。小説の途中に『書斎のすすめ 読書が「人生の扉」をひらく』という90ページほどの解説がある。この読書礼賛が私の趣味に合わない。本好きが昂じて古本屋にまでなってしまった私にとっては、書物が「人生の扉を開く」のは確かだが、「部屋の扉が開かなくなる」のもまた確かなのだ。私に言わせれば読書はただの病気に過ぎない。

 浩平は人々との出会いを通して逝去した父親の思いを知る。従姉妹の洋子、営業先の志賀会長、部下の加藤、上司の井上部長に導かれて答えは自(おの)ずから得られた。鍵が開けたのは「自分の心」であった。

 両親が結構本を読んでいたこともあって私は幼い頃から本が好きだった。文字が読めない頃から本を開いていた記憶がある。絵本はたくさんあったし、小学校に上がると小学館の『世界の童話 オールカラー版』を毎月1冊ずつ買ってもらった。


 小学校の高学年で図書室の本の半分以上の図書カードに私の名前があったはずだ。本を借りすぎて怒られたこともあった。誰もが恐れるオールドミスのヨシオカ先生に職員室で叱責され、反省文を提出する羽目となった。

 ずっと本を読んできたが病の度合いが本格化したのは、やはり上京して神田の古書街に足を運んだことが切っ掛けとなった。やがてブックオフが登場する(1990年)。私にとっては安価なドラッグが現れたようなものだ。直ぐに10冊以上買う癖がついた。やがて20冊となり、クルマを持つと30~40冊と増えていった。30代で3000冊、40代に入ると5000冊を数えた。5000冊がどの程度の量かというと、3部屋の壁ほぼ全部が本棚で各段には前後2列ずつ並べても収まらない。床は林立する本で覆われつつあった。書籍のビルはやがて都市を形成し、残されたのは奥の細道のような通路だけであった。決して笑い事ではない。2年に一度くらいの割合で書籍の重みによって床が抜けたというニュースが報じられているのだ。

 私にとって本を読む行為は人に会うことと同じである。問われるのはコミュニケーションの深さである。文字をなぞり、受け取るだけが読書ではない。優れた書籍は必ず開かれた精神で書かれている。本物の一書は答えに窮する問い掛けをしてくる。読み手は何をもって応答するのか? それは個性に他ならない。

 為になる本は読んできた。感動した本も多かった。しかしながら私の周囲にいる人々の魅力を上回ることはなかった。それほど私は人間関係に恵まれていた。『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』(レヴェリアン・ルラングァ著)を読んだのは45歳の時だ。私は完膚なきまでに打ちのめされた。『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』や『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』は過去の歴史であった。だがルワンダ大虐殺の場合、私は同時代を生きていた。「なぜ切り刻まれたツチ族の叫び声が私の耳には聴こえなかったのか?」と我が身を苛(さいな)んだ。あまりの残酷に宗教や哲学の無力を思い知った。生きる意味は殺す意味に呆気なく踏みにじられた。

 1年ほどの煩悶を経てクリシュナムルティと出会った(『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』)。『子供たちとの対話 考えてごらん』を通して私は初めてブッダの教えを理解した。心の底から「本を読んできてよかった」と思った。

 だからといって私がルワンダ大虐殺やクリシュナムルティを布教するつもりはない。ただ静かに胸の内に仕舞って今日を生きるだけのことである。

拷問され、麻酔なしで切り刻まれるウイグル人/『命がけの証言』清水ともみ、楊海英

『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル:霜山徳爾訳
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ
『私の身に起きたこと とあるウイグル人女性の証言』清水ともみ

 ・拷問され、麻酔なしで切り刻まれるウイグル人

必読書リスト その一

【『命がけの証言』清水ともみ、楊海英〈よう・かいえい〉(ワック、2021年)以下同】

 




 

 





隣国で行われている現在進行系の大虐殺/『私の身に起きたこと とあるウイグル人女性の証言』清水ともみ

『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル:霜山徳爾訳
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ

 ・隣国で行われている現在進行系の大虐殺

『命がけの証言』清水ともみ

必読書リスト その一

【『私の身に起きたこと とあるウイグル人女性の証言』清水ともみ(季節社、2020年)】


 清水ともみが『その國の名を誰も言わない』に続いて2019年8月にツイッターで発表・公開した作品である。作家の百田尚樹虎ノ門ニュースで全編を紹介し、広く知られるようになった。ネット上で公開されているが、本書と『命がけの証言』は是非とも購入していただきたい。2640円の喜捨と考えて欲しい。既に新聞やテレビでは世界を知ることはできない。犠牲者の声は圧力によって封殺される。経済的な見返りのためなら臓器狩りや虐殺も見て見ぬ振りをするのが親中派政治家や経団連の流儀である。

 岡真理はパレスチナの若者を見てこう思った。「むしろ不思議なのは、このような救いのない情況のなかで、それでもなおジハードが、そしてほかにも無数にいるであろう彼のような青年たちが、自爆を思いとどまっていることのほうだった」(『アラブ、祈りとしての文学』岡真理)。国際社会は国益を巡るゲームである。ルワンダ大虐殺の時も国連は動かなかった。目立った報道すらなかった。それどころか同じ信仰を持つイスラム世界も沈黙を保っている。インドネシアではムスリムによる反中デモが行われたが、インドネシア政府はウイグル人服役囚を中国に強制送還している。

 米軍が撤退した途端、アフガニスタンタリバンが完全に支配した。権力の真空が生まれることはなかった。中国共産党アメリカが退いたところに進出するという単純な攻撃法で国際的な影響力を高めている。WHOなどが典型だ。

 アメリカはトランプ大統領が対中制裁に舵を切ったが、政策を引き継いだバイデン政権の動きは鈍いように感じる。言葉だけが虚しく響いているような気がする。

 ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから
 社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから
 彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから
 そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

マルティン・ニーメラー


 ニーメラーの悔恨は最初の迫害を他人事と捉えたところにあった。虐殺されているのはウイグル人ではない。我々なのだ。

 




清水ともみ|note
香港でも拡散!8.6万RTウイグル漫画『私の身に起きたこと』が描かれるまで(FRaU編集部) | FRaU
ウイグルの人権問題を描いた漫画に反響 作者「怖かったけど、天命」:朝日新聞GLOBE+

『実践「免疫革命」爪もみ療法』

 読む順番。どちらも必読書。

 『実践「免疫革命」爪もみ療法』福田稔

→『長生きは「唾液」で決まる! 「口」ストレッチで全身が健康になる』植田耕一郎