広井良典


 1冊読了。


死生観を問いなおす広井良典/なぜか午前2時半に目が覚め、そのまま読み終えてしまった(今は午前4時半)。こりゃ凄いよ。2008年も残り二日というところで、年間ランキングの番狂わせとなった。さほど期待していなかっただけに、喜びと興奮も大きい。死生観を時間論から読み解いている。とにかくね、守備範囲の広さが新書のレベルを超えているわけよ。モネからマッハ、アインシュタイン、そしてキリスト教と仏教ってな具合。読んだだけで天才になれる「悟り本」と断言しておく。それにしても、これほどの良書が2001年に発行されていながら、気づかなかった己の不明が恥ずかしい。

レッテルを貼る人々/『初秋』ロバート・B・パーカー


 デタラメな両親に育てられたポール少年をスペンサーが自立させる物語。教育的要素が濃い。ひ弱な少年とマチズモの権化みたいなスペンサーのやり取りが面白い。

(※男性のバレー・ダンサーは皆ホモだと、なぜ両親は言うのか)
「なぜなら、その程度の頭しかないからだ。自分たちがなんであるのか。あるいはそれを見いだす方法を知らない、立派な人間とはどんな人間であるのか知らない、それを知る方法を知らないからだ。だから、彼らは類型に頼る」
「どういう意味?」
「つまり、きみのお父さんは、たぶん、自分が立派な男であるのかどうか確信がもてないし、そうではないかもしれない、という疑念を抱いているのだろう。そうでないとしたら、彼はそのことを人に知られたくない。しかし、彼は、どうすれば立派な人間になれるのか、知らない。だから、誰かから聞いた単純なルールに従う。自分で考えるより容易だし、安全だ。さもないと、自分で判断しなければならない。自分の行動についてなんらかの結論を下さなければならないし、その場合、自分が考えたことが守れないのに気づくかもしれない。だから、安全な道を選んだらいいじゃないか、と考える。世に受け入れられる回路に自分のプラグを差し込むだけですむ」


【『初秋』ロバート・B・パーカー/菊池光訳(早川書房、1982年)】


 敢えて断り書きを入れたが、この作品で菊池光は「バレエ」を「バレー」と書いている。いただけないね。


 世間が描くステレオタイプを鵜呑みにする馬鹿親の態度を、スペンサーは正確に表現する。「お前の親は愚か者だ」と言うことは容易だ。しかし、スペンサーは根拠と理由を重んじた。なぜなら、それこそがスペンサー自身の考えであり、自分の考えを伝えることが、両親に対する最大の批判となるためだ。


 社会に出て、大人になればなるほど、「安全な回路に自分のプラグを差し込む」ことが増える。清濁を併せ呑み、清酒とゲロを併せ呑み、濁り酒と痰まで併せ呑んでこそ大人と言えるのだ。そうしなければ、日本社会では村八分にされてしまう。農耕民族の悲しきDNAだ。


 スペンサーが持つ暴力性は、こうしたものを破壊する象徴に他ならない。私も暴力賛成派だ。


初秋 (ハヤカワ・ミステリ文庫―スペンサー・シリーズ)

劣悪な言論に鉄槌/『読書について』ショウペンハウエル

「辛辣な警句」といえば本書の右に出るものはあるまい。100年以上を経た現在も尚、鋭さを失っていない。

 さきほど私が期待したような評論雑誌がこのような風潮に対して立ち上がるとすれば、劣悪な著述業者、才気乏しい編纂者(へんさんしゃ)、他人の書物を盗用する剽窃屋(ひょうせつや)、頭は空(うつろ)で無能なくせに地位に飢えかつえた似而非(エセ)哲学者、霊感を欠いているのに気取りだけは一人前の月並み詩人など、要するにずらりと並んだ彼らの目には、この理想的な雑誌はその駄作をいずれ確実に処刑する巨大な曝(さら)し台として映るであろう。そうなると、執筆にうずく彼らの指も麻痺し、その結果、文学の真の救済が実現することになるだろう。実際、文学の世界では、拙劣なものは無用であるばかりか、積極的な害を流すのである。


【『読書について』ショウペンハウエル/斎藤忍随訳(岩波文庫、1960年)】


 そして21世紀になっても「積極的な害」は流れ続けている。それどころか、言論が劣化する度合いは増す一方だと言った方が相応しいだろう。特に主要なメディアであるテレビ、ラジオは、言葉の一過性を悪用している感すら覚える。頼みの綱である活字も、寿命が極端に短くなっており数年で絶版となっている以上、何らかの責任を負うといった概念自体が稀薄になっている。言論すら消費されているのが現実の姿であろう。


 悪質な言論を支えているのは、大衆の下劣な欲望である。イエロージャーナリズムが成り立つのは、それを購入する人々がいるからだ。つまり読み手の多くは、嘘偽りがあっても構わないから「刺激」を欲しているわけだ。


「じゃあ聞かせてもらうが、お前さんはエロ本の類いも読んでないのだろうな?」と問われれば、はたと困り果ててしまう。ああ、読んだとも。それも中学の頃からな。イガラシと二人で中心になって「全日本美術愛好クラブ」という会員証まで作ったとも。だが、言いわけをさせてもらうと、エロ本は言動ではない。男子中学生のロマンである。成人男性になるための階段なのだ。中学でエロ本も読んでいないような男がいれば、私は断固としてその野郎を男として認めない。


 余談が過ぎた。メディアや言論が抱える問題というものは、結局のところ受け手や読み手の問題に帰着する。観客民主主義の根っこもこの辺にあると思う。不特定多数の一般人は、いつだって責任を問われることがないのだ。で、刺激的な週刊誌の見出しに釣られて、つい暇つぶし目的でポケットから小銭を出してしまうわけだ。


 ショウペンハウエルの痛烈な言葉は、あなたにや私に向けて放たれたものと考えるべきだ。


読書について 他二篇 (岩波文庫)

霊は情報空間にしか存在しない/『洗脳護身術 日常からの覚醒、二十一世紀のサトリ修行と自己解放』苫米地英人


「霊魂シリーズ」第5弾。これで打ち止め。


 苫米地英人は「認識された存在」として霊へのアプローチを試みている。認知科学の立場からすれば、幻聴・幻覚の類いであろうと、本人の脳が認識している以上、「存在するもの」と仮定する。

 こうなると、霊はいないという言葉の意味がなくなる。お釈迦様のいうように実在はしていなくても、それを見て恐怖におののく人がいて、また、それと闘って勝てば消滅できるし、負ければ死んでしまう僧侶がいる以上、霊はいるというべきなのだ。「霊は存在するが、その実体は空である」というのが正確な表現であろう。もしくは「霊に実体はないが、世俗的には存在する」ということである。情報空間(仮想空間)にしか存在しないが、物理的に実在するのと同じ影響を生身の身体に与えるということだ。
 ここに洗脳の危険性がある。


【『洗脳護身術 日常からの覚醒、二十一世紀のサトリ修行と自己解放』苫米地英人三才ブックス)】


「負ければ死んでしまう僧侶がいる」というのは、多分、高野山真言宗)の修行のことだと思われる。過酷な修行によって、霊が見える状況にまで追い込まれるそうだ。手っ取り早く言えば、幻覚症状が現れるまで肉体を酷使するってことだから、ま、エベレスト登山に近い世界なんでしょうな。


 存在論というのは中々難しいところがあり、「じゃあ肉体は存在するのかよ?」って話になると、簡単には結論が出せなくなってしまうのだ。例えば、素粒子レベルで見れば、人間の身体なんかスカスカの網の目状態で、ニュートリノなんか自由に通り抜けているわけだよ。原子だって実は、その殆どが空間であることが明らかになっている。


 ま、100年も経てば、今生きている人の殆どは死んでしまうわけだから、我々の存在自体が、「単なる現象」的な側面もあるわけよ。こうなると、幽霊どころの騒ぎじゃなくなるよね。


 で、今回の結論。幽霊が見える人には幽霊が確かに存在する。以上。


洗脳護身術―日常からの覚醒、二十一世紀のサトリ修行と自己解放