華麗なエレクトーン演奏:「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「スターウォーズ」maru


 これは凄い! ただただ唖然とする他ない。大した気にも留めてなかった2曲だが、完全に好きになってしまった。このmaruという女性、演奏している時の上半身の動きが見事で、アスリートのような天性が窺える。




あやまちのない人生は味気ない/「橋の下」山本周五郎(『日日平安』所収)

 人生の奥深さを書かせれば、山本周五郎の右に出る作家は、まずいないだろう。哀感はしみじみと、そしてじわりと取り付き、読む者の背骨を自然のうちにスッと伸ばす。


 友人と果たし合いをするべく若侍がやってくる。ところが、約束の時間を間違えてしまった。ふと見ると、河原に煙が見えた。若侍が下りてゆくと、橋の下で暮らす乞食夫婦がいた。曰くありげな老夫妻のことは既に噂となって流れていた。


 若侍を見るなり、老人は察した。自分と同じ過ちを犯そうとしていることを。老人は元々武士であった。だが、好きな女性が原因で幼馴染みの友人を斬り、駆け落ちの末に転落の人生を歩んでいた。

 老人はどこを見るともない眼つきで、明けてくる河原の向うを見まもった、「あやまちのない人生というやつは味気ないものです。心になんの傷ももたない人間がつまらないように、生きている以上、つまずいたり転んだり、失敗をくり返したりするのがしぜんです。そうして人間らしく成長するのでしょうが、しなくても済むあやまち、取返しのつかないあやまちは避けるほうがいい、――私がはたし合を挑んだ気持は、のっぴきならぬと思い詰めたからのようです、だが、本当にのっぴきならぬことだったでしょうか、娘一人を失うか得るかが、命を賭けるほど重大なことだったでしょうか、さよう、……私にとっては重大だったのでしょう。家名も親も忘れるほど思い詰め、はたし合の結果がどうなるかを考えるゆとりさえなかったのですから」
「どんなに重大だと思うことも、時が経ってみるとそれほどではなくなるものです」と老人は云った。


【「橋の下」山本周五郎(『日日平安』所収、新潮文庫、1965年)】


 老人は恋に勝って、人生に敗れた。若侍を説得しようとするわけでもなく、ただ自分の越し方を淡々と語った。真の雄弁には、沈黙の中に百万言を伝える重みがあった。若侍は襟を正し、言葉遣いを改めた。生きざまが激変する時、人の言葉遣いは変わる。


 深き悔恨から、人生を見据え、過去を捉え直す作業は、まさしく哲学そのものである。老人は乞食に身をやつしていたが、修行僧さながらの精神の持ち主であった。擦れ違うような出会いの中で、人生の先達の言葉が青年を変えた。己の我執に気づいた時、若侍の顔は晴朗に輝いた。


 心に傷を負った人ほど、豊かな人生を歩める――と、この作品は教えてくれる。


日日平安 (新潮文庫)

下劣を叱咤する名ゼリフ/『スカラムーシュ』ラファエル・サバチニ


 活劇ロマンの名作。『モンテ・クリスト伯』に連なる系譜の復讐譚である。芝居がかったセリフが実に面白い。

「きさまは上着の着方や髪の結い方以外に──うん、そうだ、子供や僧侶を相手に武器をもてあそぶこと以外に人生や人間については何も知らないのか? 考える心も、心で見たことを内省してみる魂ももってないのか? 自分が怖くてならないものを殺すという卑怯なやり方、それもこんな方法で殺すのは二重に卑怯だということを、人に教えてもらわなければならないのか? うしろから短刀でつきさしたのなら、自分の下劣な勇気を示したことになるだろう。下劣さもありのままってわけだ」


【『スカラムーシュラファエル・サバチニ/大久保康雄訳(創元推理文庫)】


ノーブレス・オブリージュ」という概念は、身分制度を認めてしまうようで個人的に好きじゃない。もちろん、「武士道」も嫌いだ。いつの時代だって社会を支えてきたのは農民だったはずだ。


 これらの言わば「自発的モラル」の根底にある「卑怯を恥じる精神」に我々は感銘を受けるのだろう。


ドレフュス事件」で孤立無援のドレフュス大尉のために立ち上がったのはエミール・ゾラであった。「オーロール(曙)」紙の一面に「私は弾劾する」という大見出しが躍った。ゾラは、大統領宛ての公開質問状を掲載し、軍部の不正を糾弾した。ある時、ゾラはこう呼びかけた。「青年よ、青年よ、君は恥ずかしくはないか。正義の人が何の助けもなく、孤立無援で、卑劣な攻撃と戦っている時、それを黙って見ていて、青年よ、君は恥ずかしくないのか――」。


 恥を恥とも思わなくなるところから社会は堕落する。で、堕落を助長しているのはメディアだ。政治家、タレント、芸能リポーターに至るまで、どいつもこいつも恥知らずだ。昨今はテレビ局お抱えの女子アナがこれに加わっている。毎日、飽きることなくテレビを観ている人は、段々違和感を覚えなくなるはずだ。こうしてメディアは「常識を書き換えて」しまう。テレビカメラの向こう側にいる連中は、金さえ出せばどんな風にでも踊る連中に過ぎないにもかかわらず。モラルは地に堕ち、今となっては地中にめり込むほどの勢いだ。


 卑怯を恥じ、卑怯を憎む精神はどこへ行ってしまったのだろうか。よし、来年はこれらを探す旅に出ることにしよう。


スカラムーシュ (創元推理文庫 513-1)

「笑い」は知的作業/『落語的学問のすゝめ』桂文珍


 関西大学での講義を編んだもの。報酬の安さを何度も嘆いているのがご愛嬌。私は上方芸人はあまり好きじゃないのだが桂文珍は例外。この人は、「面白がる力」が図抜けている。


 この本で最も有名なのは以下の指摘――

 だいたい人間ちゅうのは、悲しい映画を一緒に見に行くと、泣く場所って決まってるんですね。だから涙腺を刺激するようなつくり方というのは簡単なんです。ところが、笑いというものは、人によってずいぶんとらえ方が違いまして、非常に個人差があるわけですね。(中略)
 まあ、どれがいいとか悪いとかいうことではなしに、それぞれ「笑いの尺度」というのは違ってますから、何を滑稽と思うかで、その人の性格がわかると。ですから、結婚しようかなと思う相手とは「ギャグもの」を見に行くことをお勧めします。ほいで、どこで笑うかで、こいつヘンなやっちゃなあとわかります(笑)。同じところで笑えるんであれば、これはほとんど感性、感覚が一緒ですからね、その人と結婚した方がラクです。いいですね、同じところで笑えるというのはものすごく大事なことなんですよ。


【『落語的学問のすゝめ』桂文珍講談社+α文庫)】


 テレビやラジオでさりげなくこの話が出るということは、既に常識と化した感がある。最初に読んだのは二十歳(はたち)の頃だが、物語の基本が悲劇である理由がこの一文でわかった。


 泣かせるのは感情に訴えればいいわけで、悲しみを支えているのは「孤独」である。ってことは、別れや差別などがモチーフになりやすい。一方、笑わせる場合は、常識という前提を確認した上で、それを破壊する必要がある。落語でいうところの「下げ」や「落ち」は、常識との落差を示している。


 今時の笑いは、勢いに任せているだけで知性が見受けられない。ドタバタ的な要素が強く、毒が少ない。それどころか、知名度がアップするに連れて、「笑ってもらえる」ようになっている雰囲気まである。劣悪なものになると、イジメ的要素が盛り込まれている。


 文化の成熟度が笑いにあるとすれば、もっと多様な笑いの形があってしかるべきだろう。


落語的学問のすゝめ (講談社+α文庫)