古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

『HERO/英雄』

・監督:チャン・イーモウ 【10点】
・撮影:クリストファー・ドイル
・衣裳:ワダエミ


 昨年のこと、私は珍しく封切り映画を三度見に行った。いずれも、無理矢理つき合わせられた恰好だった。煙草が吸えない場所は極力避けるのが私の方針なのだ。最初に見たのは『マトリックス・リローデッド』だった。これにはいたく失望した。まるで、平日の夜に放映されている連続ドラマのようなエンディングであったからだ。映画館を出て、長時間の素潜りに耐えたダイバーが酸素を求めるような勢いで、私は紫煙にありついた。


 この時、幕間(まくあい)の広告で知ったのが『HERO/英雄』だった。わずかな映像を見ただけで、ピンと来るものがあった。それもそのはず、カメラを握っていたのはクリストファー・ドイルだった。知ったのは映画を見終えてから。


 冒頭の千軍万馬が駆け抜けるシーンで、完全にのけぞってしまった。斬り込むようなアングル、耳をつんざく蹄(ひづめ)の大音響。私の眼は釘付けとなった。


 本国の中国では秦の始皇帝に関する人物造形が物議を醸(かも)しているようだが、それは不問に付す。


 主人公を演じるジェット・リーのワイヤー・アクションや、ワダエミが担当する衣裳と景色の様式美などが話題となっているが、これについても触れないでおく。


 まず、主役の名前がいい。「無名(ウーミン)」――。この名前自体が、英雄とは無冠であることを象徴していよう。官位や贅沢を望む心は既に堕落の一途に足を踏み入れているのだ。


 映画全編は、無名と秦王が向かい合い、対話をする場面が基調となっている。つまり、この映画のモチーフは“諫言(かんげん)”という一点に集約される。更に拡大解釈を試みると、“民が王を諌(いさ)める”ドラマともいえよう。


 武侠モノではあるが、剣戟(けんげき)と同じ重みをもって、「書」がもう一つのテーマとなっている。秦王の命を狙う刺客の一人、残剣(ツァンジェン/トニー・レオン)は剣と共に書の道を極めていた。


 残剣が身を置く塾に、秦軍の無数の矢が放たれる。逃げ惑う塾生の中にあって、塾長の老人は、「書を学ぶ精神が、こんなものに負けてたまるか!(趣意)」と降り注ぐ矢の中で筆を執る(実際は砂の上に棒のような物で文字を書く)。


 このシーンなどは、『攻防900日*1ハリソン・E・ソールズベリー早川書房:絶版)や、『福翁自伝*2に出て来る場面を想起させる。


 対話が進む中で、秦王は無名の策略に気づく。しかし、無名と3人の刺客の壮絶な生きざまに心を打たれた秦王に変化が現れる。残剣が書いた「剣」という書を見上げ、秦王はその文字に込められた深い意味を悟る。


 秦王が述べる言葉は、以下のナポレオンの言葉と全く遜色がない――

 世界には二つの力しかない、すなわち剣と精神とである。精神とは市民的・宗教的諸制度の謂いである。ついには、剣は常に精神によって打ち破られる。


【『ナポレオン言行録』オクターブ・オブリ編(岩波文庫)】


「剣」の一文字は、残剣の魂を墨に染め流して書かれていた。
「剣」の一文字は、万言を尽くすよりも雄弁に、残剣の平和の思想を物語っていた。


 事ここに至って、秦王と無名の間に心が通い合う。共感によって締め括られ、決意をもって魂の交流は幕を閉じる。


 映画のラストシーンは残酷だ。政(まつりごと)の覇道の面がおもむろに現れ、情け容赦のない果断が選択される。だが、無名は抗うことを拒んだ。無名の最初の志はちっぽけな仇討ちに過ぎなかった。しかし、彼は残剣と出会い、秦王と語ることによって、天下統一の礎石となる道を選んだ。義に生きた彼は、たった一人で革命を成し遂げた。

『HERO/英雄』オフィシャルサイトへの投稿


 二つの魂が向き合い火花を散らす。駆け引きと策略の果てに、異なる二つの道が交わる。「剣」の一字を悟ったその時、魂は劇的に交流し、溶け合う。二人は「等しい人間」となった。そして英雄は抗うことを拒否した。

追記


 今日、フジテレビで放映されているのを見た。評価は、9点から10点となった。レンタルビデオでも見ているので、これで3度目だった。それでも、画面に釘づけとなった。一瞬たりとも目を離せなかった。


 ラスト近くの飛雪(フェイシエ/マギー・チャン)の叫び声は、“剣を捨てることができなかった者”の悔恨だ。放浪の徒であった残雪(ツァンジェン)は、「お前の故郷を見たかった」と呟く。だが、彼が本当に望んだ故郷とは、限られた地方を指すのではなく、あらゆる民が権力の犠牲に泣くことのない“大いなる故郷”であった。“剣を捨てた者”は、自らの命を賭してまで、相手に“信じること”の尊さを教えようとした。


 この映画は、回想シーンと想像シーンが幾度となく交錯する。これ自体が、人生の選択肢の多さを物語っている。始皇帝の最後の選択は、個人的感情を振り捨て、“法”によって治める者の苦悩でもあった。


 こうして、つらつら考えてみると、画面を彩る美しい色彩は、様式美というよりは、仏法で説くところの、「色心不二」や「色即是空」を象徴しているようにすら考えてしまう。


 2004-10-10


戦争があっても学問の火を絶やさなかった慶應義塾/『新訂 福翁自伝福澤諭吉



*1:『攻防900日』はドイツ・ナチス軍に攻められるレニングラードを描いたノンフィクション。寒さと飢餓に苛まれる中、エルミタージュ美術館の地下では学究達が仕事を続けていた。彼等は「小さな手燭やろうそくで書物やものを書く黄色い原稿紙(ママ)の上を照らし、インクは凍りそうになるのでたえず息で暖めなければならなかった」。毎日2〜3人が死んでいく中で、生き残った研究員は死ぬまで仕事をし続けた。

*2:福翁自伝』「新銭座の塾は幸いに兵火のために焼けもせず、教場もどうやらこうやら整理したが、世間はなかなか喧しい。明治五年の五月、上野に大戦争彰義隊)が始まって、その前後は江戸市中の芝居も寄席も見せ物も料理茶屋も皆休んでしまって、八百八町は真の闇、何が何やらわからないほどの混乱なれども、私はその戦争の日も塾の課業を罷(や)めない。上野と新銭座とは二里も離れていて、鉄砲玉の飛んで来る気遣いはないというので、丁度あのとき私は英書で経済(エコノミー)の講釈をしていました」