古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

公人は修道士のような暮らしであれ

「公人は修道士のような暮らしをしなくちゃいかん、家庭も愛もなにもかもあきらめて、自分以外の者がそれらを豊に持てるように努力せにゃいかん」


【『永遠の都』ホール・ケイン新庄哲夫訳(潮文学ライブラリー、2000年/白木茂訳、潮出版社、1968年/1901年作)】


永遠の都〈上〉 (潮文学ライブラリー) 永遠の都〈中〉 (潮文学ライブラリー) 永遠の都〈下〉 (潮文学ライブラリー)

「ぎゅっと抱きしめて」つじあやの


 今見つけたウクレレ・ミュージシャン。透明感のある声にもかかわらず、投げやりな歌いっぷりという落差が面白い。CDは2枚組で1980円。破格。



つじベスト

ラジオ局のヒエラルキー

 ご承知の通り、番組聴取率が悪かったり評判がよろしくなかったりした場合、通常、放送局の社員であるディレクターは責任を取らない。
 取るわけもない。
 どんな場合にでも、彼等は権限の内にあって、なおかつ責任の外にいる。
 彼ら、局の人間は、要するに人事管理に専念する奴隷商人みたいなものであって、実際、半数以上がコネ入社(つまり局のスポンサーであるメーカーさんや大株主である広告代理店の子弟たち)の公家さんたちなのだ。
 ということであれば、現地の泥んこ仕事を担当するのはどうしたって外部の人間、つまりフリーのディレクター、構成作家、タレントといった有象無象ということになる。
 で、構成作家は、そうした責任取りの場所の、切り札みたいなものになる。
 具体的に言えば、番組の評判がよろしかった時にはディレクターのお手柄、よろしくなかったら構成作家の不手際……というわけ。
 私は、残念ながら、そういう構成作家(つまり、あらかじめ用意されたトカゲの尻尾みたいな間抜けな存在)であった。


【『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆洋泉社、1995年)】


ピジンとクレオール

 しかし、言語学者のデレク・ビッカートンによると、ピジン(※互いの言語を学ぶ機会がなかった者同士の間で作られた混成語。奴隷貿易などから生まれた)があるとき一挙に複雑な言語に変身する例も多々あるという。変身の条件はただ一つ、子どもの集団が、母語を獲得する臨界期に、両親の母語ではなくピジンに接することである。子どもたちが両親から引き離され、一カ所に集められて保育される仕組みのプランテーションで、面倒を見る係がピジンで話しかければ、この条件が満たされる。実際、その例はいくつもあった、とビッカートンはいう。子どもたちは、断片的な単語の連なりを真似するだけでは満足せず、複雑な文法を織り込んで、表現力に富んだまったく新しい言語を作り上げる。子どもがピジン母語とした場合に出現する言語を「クレオール」という。


【『言語を生みだす本能』スティーブン・ピンカー/椋田直子〈むくだ・なおこ〉訳(NKKブックス、1995年)】


言語を生みだす本能〈上〉 (NHKブックス) 言語を生みだす本能〈下〉 (NHKブックス)