「公人は修道士のような暮らしをしなくちゃいかん、家庭も愛もなにもかもあきらめて、自分以外の者がそれらを豊に持てるように努力せにゃいかん」
【『永遠の都』ホール・ケイン/新庄哲夫訳(潮文学ライブラリー、2000年/白木茂訳、潮出版社、1968年/1901年作)】
ラジオ局のヒエラルキー
ご承知の通り、番組聴取率が悪かったり評判がよろしくなかったりした場合、通常、放送局の社員であるディレクターは責任を取らない。
取るわけもない。
どんな場合にでも、彼等は権限の内にあって、なおかつ責任の外にいる。
彼ら、局の人間は、要するに人事管理に専念する奴隷商人みたいなものであって、実際、半数以上がコネ入社(つまり局のスポンサーであるメーカーさんや大株主である広告代理店の子弟たち)の公家さんたちなのだ。
ということであれば、現地の泥んこ仕事を担当するのはどうしたって外部の人間、つまりフリーのディレクター、構成作家、タレントといった有象無象ということになる。
で、構成作家は、そうした責任取りの場所の、切り札みたいなものになる。
具体的に言えば、番組の評判がよろしかった時にはディレクターのお手柄、よろしくなかったら構成作家の不手際……というわけ。
私は、残念ながら、そういう構成作家(つまり、あらかじめ用意されたトカゲの尻尾みたいな間抜けな存在)であった。
ピジンとクレオール
しかし、言語学者のデレク・ビッカートンによると、ピジン(※互いの言語を学ぶ機会がなかった者同士の間で作られた混成語。奴隷貿易などから生まれた)があるとき一挙に複雑な言語に変身する例も多々あるという。変身の条件はただ一つ、子どもの集団が、母語を獲得する臨界期に、両親の母語ではなくピジンに接することである。子どもたちが両親から引き離され、一カ所に集められて保育される仕組みのプランテーションで、面倒を見る係がピジンで話しかければ、この条件が満たされる。実際、その例はいくつもあった、とビッカートンはいう。子どもたちは、断片的な単語の連なりを真似するだけでは満足せず、複雑な文法を織り込んで、表現力に富んだまったく新しい言語を作り上げる。子どもがピジンを母語とした場合に出現する言語を「クレオール」という。
【『言語を生みだす本能』スティーブン・ピンカー/椋田直子〈むくだ・なおこ〉訳(NKKブックス、1995年)】