数年前にどこかで会ったような気が……(笑)。
「仏教」という言葉について
仏教という言葉だが、明治以前は仏法と呼ばれていた。記事カテゴリーに「仏教」を設けているのだが、これは私の信条としては仏法と表記したいところである。ただ歴史としての仏教という意味合いもあるためそのままにしている。
仏の教えとしての仏教であれば構わないのだが、キリスト教に対する仏教となると教団性が立ち上がってくる。これはブッダの本意にかなわないことだろう。ブッダには一宗を立ち上げようとする意図はなかったはずだ。
仏法とは教条主義でもなければ原理主義でもない。真実の理法という意味であるのだから、時代や社会に即応して智慧を発揮すればよいのだ。「聖者はこの世で諸々の束縛を捨て去って、論争が起こったときにも党派にくみすることがない。彼は不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然として、執することがない」(『スッタニパータ』)。
『歴史とはなにか』岡田英弘(文春新書、2001年)
「新しい歴史教科書をつくる会」が編纂した中学教科書に、中国と韓国が強く反発している。今に始まったことではない。これまでにも、日本の閣僚が中国から「正しい歴史認識の欠如」を非難されて辞任に追い込まれることもあった。しかし、中・韓両国の主張、日本政府の対応、マスコミの論評を聞いていて、いつも覚えるのは、「正しい歴史認識」とはいったい何なのかが、一向に見えない欲求不満である。肝心なのは、歴史認識や史実解釈ではなく、「歴史とはなにか」ではないのか。そんな基本的な疑問に、丹念に答えてくれるのが本書である。
著者によれば、歴史は自分の立場を正当化する「武器」だそうである。国の歴史(正史)には、本来そういう側面がある。「歴史は文化であり、人間の集団によって文化は違うから、集団ごとに、それぞれ『これが歴史だ』というものができる」が、それは「ちゃんとした歴史」ではない。「いい歴史」を書こうと思ったら、「善とか悪とかいう道徳的な価値判断」「功利的な価値判断」は一切禁物である。しかし、そうした価値判断を排して書かれた「いい歴史」は「どの国家にとってもつごうの悪い」ものにならざるをえない。
そこで思い出すのは、2000年度のノーベル文学賞を受賞した中国人亡命作家、高行健(ガオ シンジアン)が「中国の正史」を批判した言葉である。高は「歴史とは、イデオロギーを通してではなく、じかに対面すべきものである」と言った。本書は、世界文明上の歴史観を、司馬遷の「現実とかけはなれた『正統』の歴史観」(中国文明)とヘロドトスの「変化を語る歴史観」(地中海文明)の2つに分けている。どうやら、高が「イデオロギーに基づく正史」と批判する中国の歴史記述は中国の伝統なのである。それが「いい歴史」かどうかは別にして、それぞれの国が自分の歴史をどう記述しようが、他国がとやかくいう筋合のものではないかもしれない。
しかし、求められるのはやはり「いい歴史」である。だが、「いい歴史」は必ずしも万人を喜ばせるものではない、と本書は言う。胸のつかえの下りる本である。
【WILLCOM(ウィルコム)】 HYBRID W-ZERO3 受信感度不良
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私も先ほどカスタマーに電話をしたところだ。先日、カミサンからのメールが数十通も届いた。送信時間は全部違っていた。何が困っているかというと、私はG3回線を使っていないのだが、インターネットにアクセスできないことと、メールの送受信ができないこと。時折、電話に出た瞬間、切れることもある。
今まで無料端末を使用してきたが、こんなことはかつて一度もなかった。WILLCOM愛用者は新しい端末に飛びつかない方がいいね。iPhone+Skypeにしようかと思案中。