私がより安いものを買うたびに、誰かの食事はその分だけ惨めなものになり、私がワンクリックでなにかできるようなったとき、かつてそれらを担っていた何人かの人間は職を失って首を吊る。ワンクリックでなにかできるようにする仕組みを作る人間は少なくていい。もう要らなくなる。人間の価値は日に日に安くなり、人間は不要なものになっている。私は知らず知らずに行ってきて、いまそれに気づいたところで、やはりそれをやめない、やめられない。買い叩かなければ、私は食えない。貧乏人は共食いをするしかない。
デフレというのはものの値段が下がることかと思っていたが、一番安くなってるのは人間の価値じゃないのか。
私はこの世界のさらに富めるもの、優秀なもの、大きなものからそのような仕打ちを受けているし、その仕打ちをさらに貧しいもの、劣るもの、小さなものに与える。私は富めるもの、優秀なもの、大きなものを憎悪する、殺意を抱く。それと同じ憎悪や殺意は同時に後ろから、下から私に浴びせかけられる。上等じゃないか、人殺しの顔をしろ、お前も、俺も、俺もあんたも。
トイレに閉じこめられた63歳女性、8日目救助 訴え届いた日、母は天国に旅立った
人間に育てられた類人猿は自分を人間だと思っている
本に対する執着は、人生に対する執着に他ならない
たいていの本は、読み終えられた瞬間にその価値を失ってしまう。そして、二度と開かれることもないまま、長い無意味な余生を、本棚の中で、ダニの培地として過ごすのだ。
それでも、そうした一向に価値のない本たちを捨てる時に、愛書家は、我が身を切られるような痛みを経験する。ダニでさえ、インクのついていないところを食べるというのに、人は、自分の目が辿った活字たちが自分の手元から離れていくことに、どうしようもない淋しさを感じるのだ。
たぶん、我々がこうも深く本に執着するのは、我々が本とともに過ごした時間に執着しているからであり、自身の経験そのものに執着しているからなのだろう。
その意味では、本への執着は、そのほかの、例えば、金への執着や、女や酒に対する執着よりも始末が悪い。なぜなら、本に対する執着は、人生に対する執着に他ならないからだ。
人生は(というこの主語は、それにしても凄い)、ただ過ぎて行くだけのもので、蓄積したり連続したりするものではない。しかし、我々は、それを制御しようとし、記録しようとし、あるいは積み上げ、整理し、理解し、征服しようとする。当然のことながら、その試みは成功しない。瞬間の連続でしかないものが蓄積されるわけがないのだ。
そこで、我々は人生の代わりに本を蓄積する。自分の記憶や経験を本棚に積み上げて、そこに自分の人生のネガのようなものを保存しようとするのだ。
- 『安全太郎の夜』
安全太郎の夜
チンギス・アイトマートフが生まれた日
今日はチンギス・アイトマートフが生まれた日(1928年)。キルギスの作家。08年没。幼年時代は放牧生活を送る。11歳の時に父親が粛清される。苦難に満ちた少年時代であった。フランスの作家ルイ・アラゴンは、『ジャミーリャ』を「この世で最も美しい愛の物語である」と絶賛している。