本に対する執着は、人生に対する執着に他ならない

 たいていの本は、読み終えられた瞬間にその価値を失ってしまう。そして、二度と開かれることもないまま、長い無意味な余生を、本棚の中で、ダニの培地として過ごすのだ。
 それでも、そうした一向に価値のない本たちを捨てる時に、愛書家は、我が身を切られるような痛みを経験する。ダニでさえ、インクのついていないところを食べるというのに、人は、自分の目が辿った活字たちが自分の手元から離れていくことに、どうしようもない淋しさを感じるのだ。
 たぶん、我々がこうも深く本に執着するのは、我々が本とともに過ごした時間に執着しているからであり、自身の経験そのものに執着しているからなのだろう。
 その意味では、本への執着は、そのほかの、例えば、金への執着や、女や酒に対する執着よりも始末が悪い。なぜなら、本に対する執着は、人生に対する執着に他ならないからだ。
 人生は(というこの主語は、それにしても凄い)、ただ過ぎて行くだけのもので、蓄積したり連続したりするものではない。しかし、我々は、それを制御しようとし、記録しようとし、あるいは積み上げ、整理し、理解し、征服しようとする。当然のことながら、その試みは成功しない。瞬間の連続でしかないものが蓄積されるわけがないのだ。
 そこで、我々は人生の代わりに本を蓄積する。自分の記憶や経験を本棚に積み上げて、そこに自分の人生のネガのようなものを保存しようとするのだ。


【『安全太郎の夜』小田嶋隆河出書房新社、1991年)】


安全太郎の夜