新訳『木曜日だった男 一つの悪夢』チェスタトン/南條竹則訳vs『木曜の男』G・K・チェスタトン/吉田健一訳



木曜日だった男 一つの悪夢 (光文社古典新訳文庫)

 この世の終わりが来たようなある奇妙な夕焼けの晩、19世紀ロンドンの一画サフラン・パークに、一人の詩人が姿をあらわした。それは、幾重にも張りめぐらされた陰謀、壮大な冒険活劇の始まりだった。日曜日から土曜日まで、七曜を名乗る男たちが巣くう秘密結社とは。



木曜の男 (創元推理文庫 101-6)

 無政府主義者の秘密結社を支配している、委員長〈日曜日〉の峻烈きわまりない意志。次々と暴露される〈月曜〉、〈火曜〉……の各委員の正体。前半の奇怪しごくな神秘的雰囲気と、後半の異様なスピードが巧みにマッチして、謎をいっそう奥深い謎へとみちびく、諷刺と逆説と、無気味な迫力に満ちた逸品として、一世を驚倒させた著者の代表作。

ダフネ・デュ・モーリア


 Dame Daphne du Maurier/1907年5月3日-1989年4月19日


 ロンドン生まれ。祖父はフランスから移り住んだ人気画家、父は『ピーター・パン』の作者、J・M・バリーとも親交のあった有名俳優という芸術家一族に育つ。自立のために小説家を目指し、20代のころ後の映画監督キャロル・リードと恋愛関係になるが、結局、イギリス軍人のブラウニングと結婚、1男2女をもうける。『レベッカ』は、1938年の刊行直後に英米でベストセラーになり、1940年にヒッチコックによってハリウッドで映画化され、アカデミー賞を受賞。「20世紀のゴシックロマン」「ミステリーの金字塔」と賞され、1978年にアメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞グランドマスター賞を受賞している。清楚な美人だが、社交嫌いで静かな生活や散歩を好み、このあたりの性格は『レベッカ』の主人公に投影されている。主な著書に『鳥』『レイチェル』『破局』など。(新潮社サイトより)


レベッカ〈上〉 (新潮文庫) レベッカ〈下〉 (新潮文庫) レベッカ


破局 (異色作家短篇集) レイチェル (創元推理文庫) 鳥―デュ・モーリア傑作集 (創元推理文庫)


レベッカ (上巻) (新潮文庫) レベッカ(下巻)

思考の終焉/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

 蓄積は不自由であり、知識・経験は過去の亡霊である。経験は「私」によって構成された物語である。美しい黄昏(たそがれ)に心を奪われる時、人は忘我の境地となる。発見・感動は「我を忘れさせる」。そこに過去は介在していない。圧倒的な現在が刻々と流れ通う。そして、対象と自分とが完全に一体化する。


「私」という意識は思考する。思考することで「私」にしがみつき、「私」を強化する。「私」は「思考」である。

「では何が知恵なのですか?」
 知識がないときに知恵がある。知識は連続性を持っている。連続性なしには、知識はない。連続性を持つものは、決して自由ではありえず、新たなものではありえない。終りを持つものにのみ自由がある。知識は、決して新たではありえない。それは、常に古いものになっていく。古いものは、常に新たなるものを吸収し、そしてそれによって力を得ていく。新たなるものがあるためには、古いものがやまねばならないのである。
「言い換えれば、あなたは、知恵があるためには思考が終らねばならない、とおっしゃっているわけですね。しかし、いかにして思考を終らせたらよいのですか?」
 いかなる種類の規律、訓練、強制によっても、思考の終焉はない。思考者は思考であり、そして彼は、彼自身に作用を及ぼすことはできない。作用するとしたら、それは単なる自己欺瞞にすぎない。彼は【即】思考であり、彼は思考と別個のものではない。彼は、彼が異なっていると思いこみ、似ていないふりをするかもしれないが、しかしそれは、それ自身に永続性を与えようとする思考の狡猾さにすぎないのだ。思考が思考を終らせようと試みるとき、それは単にそれ自身を強めるにすぎない。どうあがこうと、思考はそれ自身を終わらせることはできない。このことの真理が悟られるときにのみ、思考は終わる。あるがままの真理を見ることの中にのみ自由があり、そして知恵は、その真理の知覚である。あるがままは決して静止的でなく、そしてそれを受動的に注視するためには、あらゆる蓄積物からの自由がなければならない。


【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


 凄い……。「知識の否定」は「連続性の否定」であった。連続性とは運動である。以前、「24時間戦えますか?」とサラリーマンに問い掛けたコマーシャルがあったが、24時間は可能であっても240時間は無理だ。我々は睡眠を取らないと生きてゆけない。つまり、永久機関は存在しないということだ。水飲み鳥もいつかは止まる。物質の世界には必ず摩擦が生じる。運動は減退せざるを得ない。


 古代ヒンドゥー教バラモン教)では、自我の深層を司る真我(しんが/アートマン)は宇宙の根本原理であるブラフマンと同一であると説いた(梵我一如)。ここにおいて「我」(が)=「私」は限りない連続性を伴って肥大し続ける。すなわち、永遠性ってやつだよ。


 これをブッダは完膚なきまでに否定した。「諸法無我」と。つまり、「私」という存在は錯覚なのだ。意識と思考とが捏造(ねつぞう)した影に過ぎない。そして我々は思考という連続性でもって影の実体化に余念がないというわけだ。


 日蓮は不変真如(ふへんしんにょ)の理を迹門(しゃくもん/影の意)と位置づけ、随縁真如(ずいえんしんにょ)の智を本門とした。理は知識であり、智は智慧である。不変真如の理には「焼」の義が、随縁真如の智には「照」の義があり、「煩悩(ぼんのう)の薪(たきぎ)を焼いて菩提(ぼだい/覚り)という智慧の火が現れる」と教えている(「御義口伝」〈おんぎくでん〉)。


「私」に終止符が打たれた刹那(せつな)に智慧は発動する。だが、それは無意識から湧いてくるものではない。なぜなら、無意識(阿頼耶識〈あらやしき〉)とは意識の表層に上らない条件づけであるからだ。歴史や社会を始めとする外界から働きかけるありとあらゆる条件づけは、緩やかなプレッシャーとなって人々の意識を加工する。意識は常に条件づけという重力に支配されているのだ。


 クリシュナムルティの思想は完全にブッダと一致している。つまり、「生きる」とは「死ぬ」ことなのだ。連続性の否定とは、過去を死なせることである。なぜなら、過去が生きている間は現在が死んでしまうからだ。ここに知識と智慧の決定的な違いがある。


 生死不二(しょうじふに)――。生は死であり、死は生である。死は恐れるべきものではなく、生は執着すべきものではない。永遠は彼岸には存在しない。それは現在という瞬間に存在するのだ。クリシュナムルティが説いているのは「一念三千の法理」(一瞬の生命に三千の諸法が具わっているとする法理)であった。

生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈1〉生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈2〉生と覚醒のコメンタリー〈3〉クリシュナムルティの手帖より生と覚醒のコメンタリー〈4〉クリシュナムルティの手帖より


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