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- 気づき(アウェアネス)に関する考察
東日本大震災の危機的状況を通して「気づき」(アウェアネス)について考察する。
【3月11日の地震後の津波】
津波が来ることを知りながら「やばい」を連発している。パソコンやゲームの心配をしているうちに道路が浸水。この時点で避難することを決めたが、家の窓を閉めたことで時間が奪われてゆく。声が引っくり返って半べそ状態。撮影者はその後、流れてきた船に飛び乗り、民宿の屋上へ避難できたとのこと。我々は危機的状況を自覚するのに信じられないほどの時間を要する。
【茨城市磯原】
この方は辛うじて避難できたが、津波の規模に助けられたと見るべきだ。気仙沼で同じ判断をした人々は間違いなく波に飲まれてしまったことだろう。被災者の中には動画撮影をしたために逃げ遅れた人々も大勢いたに違いない。
【岩手県陸前高田市】
消防団員が「早く早く!」と叫ぶも、避難する人々はまだ日常の延長線上から意識が脱しきれていない。
【宮城県多賀城市】
日常の思考だと「自動車が水に流されること」はあり得ない。高い場所にいる人は、低い位地の危機的状況が見える。この時点では「談笑しながら、自分の車の心配をする」レベルであったことがわかる。彼らは被害の全容が明らかになるにつれ、我が身の幸運に感謝したことだろう。
【M8.8の地震でもゲームはやめないぜ!】
日常の思考回路(この場合はゲーム)から脱することは難しい。また、家族が声もかけずに屋外へ避難していることもわかる。
【宮城県南三陸町志津川高校から見た津波の様子】
津波はあっという間に猛威を振るった。画面奥では建物がなぎ倒され粉塵が舞い上がっている。数台の車が走っている。そしてわずか5分足らずで撮影者の目の前にまで波が押し寄せる。画面左では避難していた人が懸命に車椅子を引っ張っている。我々は危険を予測することができない。
【岩手県釜石市の根浜海岸にある宝来館】
これほどの津波は誰も想像できなかった。家どころか町そのものが流されたのだ。
【巨大津波の脅威 街が消えた…】
【大津波にのみ込まれる瞬間の気仙沼市街】
【東日本大震災からこうして避難/岩手県大船渡市】
銘菓「かもめの玉子」で知られるさいとう製菓の社長が撮影したもの。地震直後に迷うことなく避難している。社員に対する責任から生じた果断であろう。だが、その社長も店舗が津波に飲まれ愕然とする。
【東日本大震災からこうして避難・そして大津波/岩手県大船渡市】
埠頭の浸水から3分で奔流となり、家屋が流されている。「ホラ早く逃げろ、馬鹿だなあ」と周囲の人が言う。先に避難した人には避難していない人の愚かさが見える。
【東北放送(TBC)の記者】
津波の知識がある人物が迅速に避難してギリギリ助かっている。
我々は漫然と昨日〜今日の延長線上に明日があるものと思い込んでいる。一寸先は闇であることを知りながらも、日常の思考回路から抜け出すことができない。避難するためには、非日常のスイッチを入れる必要がある。
スイッチを切り替えるとは、例えば蛇を見た瞬間のようなものである。全身これ注意の塊(かたまり)と化す。そして、見る=注意=変容が即座の行動を促す。
しかし津波は見ることができない。とすれば情報と知識が頼みの綱となる。まず地震の揺れという体感情報があり、次に災害情報がある。避難できた人々の多くは地震直後に行動を起こしている。ただし場所によっては、それでも亡くなった方々もいたことだろう。
- 「津波予測は3mか、なら逃げる必要ないな」と判断していた東北民が多数いたことが判明(4月17日にリンクを追加)
津波に関しては、小田嶋隆が紹介した「津波てんでんこ」(「津波の時は親子であっても構うな。一人ひとりがてんでばらばらになっても早く高台へ行け」という意味)こそが古来から伝わる知恵なのだ。
高台の人が逃げ遅れた人を「馬鹿だなあ」と言っている。視点は高いほど全体を見渡せる。全知全能の神とは、宇宙の一切を見通す視点を示したものだろう。ヘリコプターの視点であれば津波は一望できる。
気づき(アウェアネス)とは「悟り」のことである。蛇を見た瞬間に「危険を悟る」のだ。日常においても注意を払っていれば察知できることは意外と多い。漁師であれば波や風からも変化を読み解くことができる。
あるがままを理解するには、即座の気づき(アウェアネス)が必要である──なぜならば、あるがままの実相は、決して静止していないからである。
【『生と覚醒のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】
「あるがまま」とは刻々と変化する「現在」のことだ。変わらぬ日常ではない。とどまることを知らない諸行無常の姿に世界の本質がある。
災害や事故による死は痛ましい。「握っていた家族の手が離れてしまった」という証言もあった。目の前で家族や友人の命を奪われた気持ちは筆舌に尽くせるものではない。
花を摘むのに夢中になっている人を死がさらって行くように、眠っている村を洪水が押し流していくように、花を摘むのに夢中になっている人が未だ望みを果たさないうちに、死神がかれを征服する。(ダンマパダ)
過ぎ去ってみれば光陰は矢の如く、人生は露のようなものであろう。災害を免れることができたとしても、我々は死から逃れることはできない。
死は、いかなる死であっても痛ましい。その意味でどの死も例外的である。想定された死は極めて少ない。たとえ余命が宣告されたとしても死には意外性がある。我々は他者の死を見つめることはできても、自分の死を見つめることができない。そして見つめようともしないのだ。
東日本大震災は惰眠を貪る私の目を覚ました。亡くなった方々を心から悼みつつ、私は生き方を変える。自分の死を見つめながら生きてゆく。