ヒンズー教は社会的不平等を擁護する宗教/『不可触民の父 アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール


 アンベードカルは不可触民の権利を守るために、なんとヒンズー教をも攻撃した――

“犬およびインド人立入るべからず”といっているヨーロッパ人クラブに入れてくれとヒンズー教徒が懇願しないのと同様、不可触民以外の全てのヒンズー、犬すら立入りを許可する寺院に入れてくれとは、われわれ不可触民はもはや頼みはしない。
 寺院を開放するかしないかは、カーストヒンズーが考えることで、私がとやかくいうことはない、と述べた。
 また、不可触民は、社会的不平等を擁護するような宗教にはもはや我慢できない。ヒンズー教が宗教だというのなら、社会的平等をもった宗教でなくてはならない。もしそのような宗教であろうとするなら、寺院立入りだけでは不十分である。四姓制度そのものからその不平等性を放逐しなくてはならない。これこそ全ての不平等の根元であり、カースト制度、不可触民制度の生みの親であるからだ。そうでない限り、われわれ不可触民は寺院立入りは愚か(ママ)、ヒンズー信仰そのものに反対するだろう。


【『不可触民の父 アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール山際素男訳(三一書房、1983年)】


 アンベードカルヒンズー教徒であった。だが彼は信仰よりも、虐げられている多くの人々を重んじた。ここにアンベードカルの強さと独創性があった。


 差別を助長させる思想が、世界を分断する。結合は善で、分断は悪――これが善悪の本質だ。


 アンベードカルは、差別まみれとなったインド社会を不可触民と結合させようとしたのだ。アンベードカルが目指したものが善である以上、彼に反対し、邪魔をし続けたガンディーは悪の存在となる。


アンベードカルの生涯 (光文社新書)

真のゲリラは死ぬまで革命家であり続けた/『チェ・ゲバラ伝』三好徹


 これが冒頭の一文――

 人が革命家になるのは決して容易ではないが、必ずしも不可能ではない。しかし、革命家であり続けることは、歴史の上に革命家として現れながらも暴君として消えた多くの例に徴するまでもなく、きわめて困難なことであり、さらにいえば革命家として純粋に死ぬことはよりいっそう困難なことである。エルネスト・チェ・ゲバラの生涯は、このもっとも困難な主題に挑み、退くことをしらなかった稀有の例であった。革命家には勝利か死かしかないというおのれの、あえていうならばロマンティックな信条の命ずるままに自分の行動を律して生涯を終えた。革命にもしロマンティシズムがあるならば「チェ」は文字通りその体現者だったのである。


【『チェ・ゲバラ伝』三好徹(文藝春秋、1971年)】


 評伝の類いは往々にして人生をなぞることに重きが置かれ、内面的な世界をなおざりにしている作品が多い。本書も決して読み物としては面白いものではない。それでも、ゲバラの言葉と行動は読み手の心を動かさずにはおかない。


 チェ・ゲバラは“武装した天使”であった。南米を蹂躙(じゅうりん)するアメリカに徹底抗戦を挑んだ男であった。贅沢とは無縁な高潔なリーダーであった。労働者と一緒に働く政治家であった。そして、キューバ革命の先頭に立ったアルゼンチン人であった。


 世界のどこかに苦しみ喘(あえ)ぐ民がいる限り、ゲバラは戦い続けた。そして、自らが決めた使命に生き、使命に死んでいった。


チェ・ゲバラ伝

やっぱり、そういうことか 高速料金値下げ狂騒

 高速料金値下げがETC車に限られることから、カーショップでは車載機を購入する人が殺到中。今なら助成金5250円も出る。ところが、この助成金はもとはドライバーから徴収した金だ。しかも、高速料金値下げ狂騒のウラで、この助成金によって別の天下り財団が肥え太る構図も見られる。またも利権構造だ。


日刊ゲンダイ 2009-03-17】

エホバの証人の輸血拒否


 昨日、リンクした「NATROMの日記」に関連記事があったので紹介しよう(時系列順)。

 Wikipediaによれば、この他にも兵役拒否、国旗敬礼・国歌斉唱を忌避、他宗の儀式へは参加しない、といった特徴的な行為が挙げられている。確か選挙の投票もしないはずだ。性行為もかなり規制されている。たとえ夫婦であったとしてもだ。


 実は個人的にエホバの証人が好きだ。今まで会ったエホバの人々は皆いい人だったからだ。それも、すこぶる付きの。聖書も実によく研鑚している。


 世界の諸問題の基底に共通しているのは欧米列強による帝国主義的思想であり、それを支えているのはキリスト教である――というのが私の持論である。それでもエホバの人々には好感を抱いている。


 しかし、輸血拒否となるとまた別の話だ。近頃、ろくでもないエホバ信者と遭遇した。独善を絵に描いたような人物だった。友人にその話をしたところ、「注射器を持っていって、おもむろに輸血してしまえよ」と言われた。嫌がらせという点では完璧だ。


 彼等がなぜ輸血を拒否するのか私は知らない。多分、神様がつくったものに対して勝手な人為を加えるのはダメだ、ってな話なのだろう。それはそれで宗教的整合性はある。だが致命的なことに、「神様がつくった」という証拠がない。証拠が出たら出たで、「じゃあ、神様をつくったのは誰なんだ?」という方向に議論は発展する。


 エホバ信者は“血の滴るようなステーキ”を食べないのだろうか。食料に混じっている血は無視できるのだろうか。はたまた、彼等の目にはドラキュラがどんなふうに映っているのだろうか。


 教義を盾(たて)にして、助かるべき命が助からなかったとすれば、それは「人命よりも教義に価値を置く」教えであり、「教義のために人間を犠牲にする」思想であると言ってよい。


 もっと簡単に説明しよう。輸血をしたエホバ信者がいたとする。教団はこの信者をどのように扱うだろうか。きっと「異端」の烙印(らくいん)を押すのだろう。多分、ノアの箱舟には乗せてもらえないことになる。つまり、教義が「差別意識を助長」してしまうのだ。そもそも、エホバの証人自体がクリスチャンの間では異端視されているわけだから、異端×異端=正統となるような気もする。


 神様が人間をつくったとすれば、神様はよほど不器用だったのだろう。全知全能の看板に偽りあり。


【追記 3月18日】「鰤端末鉄野菜 Brittys Wake」(元エホバ信者の方)によれば、「『血を避けろ』と聖書に書いてあるから」というのが輸血拒否の理由らしい。更に「実はエホバの証人も輸血OKだった時期があった」というのだから驚き。コロコロと変わる教義を律儀に守っている信者が気の毒だ。