古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

ルワンダ大虐殺の始まり/『ジェノサイドの丘』フィリップ・ゴーレイヴィッチ

 ルワンダ――この国名は、もはや私にとって他人事では済まされない。骨髄に刻まれた感がある。人間の狂気と寛容とを兼ね備え、殺した人々と殺された人々の家族が共に住む大地。その重みに耐えかねて、アフリカ大陸は窪んでしまっていることと想像する。

 教室の中へ、死体のあいだにそっと足を踏み入れたとき、まだたくさん想像しなければならないことがあった。死者たちと殺人者たちとは隣人同士であり、同級生であり、同僚であり、ときには友人同士であり、親類の場合さえあった。死者たちは破局の何週間も前から殺人者たちがおこなう軍事訓練を見ていたし、それがツチ族を殺すための訓練だということも知っていた。それはラジオでも放送されており、新聞でも報じられており、みなおおっぴらに話していた。ニャルブイェの虐殺の前週、ルワンダの首都キガリで殺害ははじまっていた。フツ至上主義思想に反対するフツ族は公式にツチ族の「同調者」とされ、虐殺がはじまるとまっさきに殺害された。ニャルブイェでは、ツチ族の人々から保護を求められたツチ族市長は、教会に避難するように勧めた。ツチ族がその言葉に従うと、数日後市長が先頭に立って殺しにきた。市長は兵士、警官、民兵、それに村人たちを率いていた。武器を配り、仕事をやりとげるようにと命令を下した。それだけでも充分だったが、市長はみずから数名のツチ族を殺したという。
 ニャルブイェの殺戮は一日じゅう続いた。夜になると殺人者たちは生き残った者のアキレス腱を切り、教会の裏で宴会を開いた。大きな焚火を起こして犠牲者から略奪した家畜をあぶり、ビールを飲んだ。そして朝には、犠牲者の悲鳴を子守り歌にどれだけ寝られたかはともかく、二日酔いで目覚め、戻ってきて殺害を再開した。毎日毎日、毎分毎分、ツチまたツチ。ルワンダのいたるところでそれが起きたのを知っているし、いかに起きたかを聞いているし、ほぼ3年にわたりルワンダ各地を見てまわり、ルワンダ人たちの言葉に耳を傾けてきたから、いかに起きたかを説明できるし、これからするつもりだ。だがそれでもこの恐怖――愚かしさ、もたらした破壊、どうしようもない邪悪さ――がいささかでも薄れるわけではない。


【『ジェノサイドの丘』フィリップ・ゴーレイヴィッチ:柳下毅一郎〈やなした・きいちろう〉訳(WAVE出版、2003年)】


 私はルワンダを知ることで、初めて人間を理解した。


 私はルワンダを知ることで、初めて腸(はらわた)が捻(ねじ)れる思いをした。


 私はルワンダを知ることで、入り乱れた絶望と希望、交錯する光と闇の存在を知った。


 ルワンダ――これ以上ない不条理からの出発。遅れ馳せながら、私も出発しよう。


『この大地に命与えられし者たちへ』写真・文 桃井和馬

 写真とは切り取られた“瞬間”である。何をどう写すかは、カメラを持つ者の立ち位置で決まる。桃井和馬は世界140ヶ国を飛び回り、己の視線が捉えた光景と人々を“永遠”に刻みつけようとしている。


 万物は諸行無常であり生老病死のリズムを奏でる。桃井は敢えてこれを引っくり返している。すなわち、世界が死から再生へと向かう“希望の物語”として紡ぎ出した。


 9.11テロから1年後のグラウンド・ゼロから幕は開ける。夜の廃墟が、信じられないほどの明るい光に照らされている。摩天楼が林立する中にぽっかりと空いた穴は、“死”そのものであり、まるで“帝国主義の葬式”のようだ。


 そして、数ページ後に濁流の写真。桃井が撮る写真は、決して奇抜なものではない。禍々(まがまが)しい惨状もなければ、覗き趣味を満足させる下品さとも無縁だ。彼が見つめているのは、人々の生活の息遣いと、歴史に翻弄されながらも生き続ける人々の現実である。


 土壁の建物の美しい扉がランダムに配されていた。左ページに「閉ざされた心」とだけ記されている。右下の小さな文字に目を凝らした。ルワンダだった。嗚呼――。私は太い溜め息をついた。ジェノサイドで子供全員が殺された母親と、鉈(なた)の傷で頬の上から耳の後ろまでが陥没している少年の写真があった。嗚呼――。私はルワンダで何が起こったかを知っている。そして私は彼女達が抱え続ける苦悩を知らない。嗚呼――。


 表紙に配されている写真は、パキスタンで撮影されている。汚れた爪で目を掻いているこの子は、少年か少女かもわからない。表情も明るくはない。そのつぶらな瞳の向こうには何が映っているのだろう。子供の頭に置かれた皺だらけの手が、黄金のように光っている。未来を温かく育んでいる手だ。


 右ページには肉屋の仕事場と思しき場所で、座り込んで話す男女のカップル。左ページには床屋で髭を当たっている中年男性。こんなどうでもいい、ありふれた日常の写真を見て、初めてホッと一息つける。「ああ、俺は幸せだったんだな」と気づかされる。そして、結婚式を上げた美男でも美女でもないカップルが二組。幸福になるためには容姿すら関係ない。彼等の笑顔が、私の陳腐な悩みを嘲笑う。


 透き通った美しいクモ、葉脈だけが残ったボロボロの葉っぱ。自然の摂理はいつだって調和を奏でている。ちなみにクモの写真は東京となっているが、自宅の近くで撮影したそうだ。


 清流が飛沫(しぶき)を上げて流れる。水は生命の母だ。水は絶え間なく循環する。果たして人類の生々流転は、地球を潤しているのだろうか――そんな思いが奔流となって胸の奥から溢れ出てくる。

 一日を愛し
 一年を憂い
 千年に想いを馳せる


【『この大地に命与えられし者たちへ』写真・文 桃井和馬(清流出版)】