東日本大震災で全校児童の約7割にあたる74人が死亡・行方不明になった宮城県石巻市立大川小学校で、地震発生から児童らが津波にのまれるまでの詳細な状況が13日、市教委や助かった児童の保護者らへの取材で明らかになった。
学校側が、具体的な避難場所を決めていなかったことや、教諭らの危機意識の薄さから避難が遅れ、さらに避難先の判断も誤るなど、様々な〈ミスの連鎖〉が悲劇を招いた。
市教委の調査などによると、3月11日午後2時46分の地震発生時は、児童は下校中か、「帰りの会」の途中だった。校舎内の児童は教師の指示で校庭に集合し、学年ごとに整列した。下校中の児童もほとんどが学校に戻った。
午後3時頃、点呼を終えると、教頭と数人の教諭が桜の木の下で、「山へ逃げるか」「この揺れでは木が倒れるので駄目だ」などと話し合っていた。学校の津波の際の避難マニュアルは避難場所について「高台」としていただけで、具体的な場所を記していなかった。
ただ、津波被害を受けた周辺の5小中学校のうち、1校には避難マニュアルがなく、作成していた4校のうち1校は避難場所を「校庭」としていた。
一方、防災無線からは大津波警報が鳴り、避難を呼びかける声が響いていた。余震が続き、泣き出したり、嘔吐(おうと)したりする子もいた。保護者らが相次いで児童を迎えに訪れ、教諭は対応にも追われた。「ここって海岸沿いなの」と不安がる女子児童や、「死んでたまるか」と口にする男子児童もいて、騒然とした雰囲気になった。
当時6年生の女児を連れ帰った母親(44)によると、母親が担任に「大津波が来る」と慌てて伝えた際、担任は「お母さん、落ち着いてください」と話した。しかし、すぐに避難する様子はなく、「危機感がないようだった」という。暖を取るため、たき火をしようとした教諭もいたとの証言もあったが、市教委は確認できなかったとしている。
市教委の調査では、その後、市の広報車から「津波が松林を越えてきた。高台に避難してください」と呼びかける声が聞こえた。教諭と、この時も、集まった地域住民の間で「山へ逃げた方がいい」「山は崩れないのか」などのやり取りがあった。結局、約200メートル先の北上川堤防付近にあり、堤防とほぼ同じ高さ6〜7メートルの高台に避難することになった。
避難を始めたのは地震から約40分後の午後3時25分頃。約10分後の午後3時37分頃、6年生を先頭に、学校の裏手から北上川沿いの県道に出ようとしたところで波が襲い、高台ものまれた。