そもそも議論・対話とはそうしたもののはずで、あらゆる「特定の立場」と無関係で、普遍的に無謬な「実証」「真実」などというのは、ごくかぎられた科学的実験の場などに限定されるべきものである。
にも関わらずその実在がナイーブに信じられるというのは、一種の「信仰」の問題でしかない。それぞれの専門は異なる「信仰」をもつだろうが、それが前提におかれるかぎり、結局のところ、異なる手法で「真実」を語るもの同士が、いつまで経っても合意できない神学論争を繰り広げることとなる。
【高原基彰】
そもそも議論・対話とはそうしたもののはずで、あらゆる「特定の立場」と無関係で、普遍的に無謬な「実証」「真実」などというのは、ごくかぎられた科学的実験の場などに限定されるべきものである。
にも関わらずその実在がナイーブに信じられるというのは、一種の「信仰」の問題でしかない。それぞれの専門は異なる「信仰」をもつだろうが、それが前提におかれるかぎり、結局のところ、異なる手法で「真実」を語るもの同士が、いつまで経っても合意できない神学論争を繰り広げることとなる。
【高原基彰】