月並会第1回 「時間」その二

 テクノロジー開発の目的は「時間の短縮化」といえる。移動、製造、記録がスピードアップすることで、現代人の情報量は増大の一途を辿っている。その分、「豊かな時間」は失われた。CMをカットした録画番組を観たところで、CMの時間の分だけ人生が長くなるだろうか?


 時間が手段になったとすれば、一生という時間も目的のための手段に過ぎなくなる。時間は有限だ。私が死んだ瞬間、あるいは地球が滅んだ瞬間、更には宇宙が消え果てた瞬間に時間は溶けてなくなる。観測者もいなければ、変化する物も存在しない世界だ。


 人々の生活は時間に追われている。労働・家事・育児と。子供たちの学校生活も時間割で管理されている。現代社会においては否応なく労働を強いられ、よき納税者であることを求められる。歴史は権力者のペンで記されるとすれば、権力が人々の時間管理をするのも当然か。


 人間の知覚は0.5秒ほどのタイムラグがある。我々が認知している世界はわずかながら過去の世界だ。知識も過去であり、歴史も過去である。そして自我もまた過去である。なぜなら自我とは記憶の異名に他ならないからだ。


 意識とは何ぞや? 意識とは言葉で織りなされる思考である。学習された言葉で行う思考もまた過去である。思考の次元で現在を捉えることはできない。「あ、わかった!」という理解の瞬間や、何かに感動した時、そこに現在性が立ち現れる。


 自我とは記憶の異名である。「認知症になったらおしまいだ」という発言を時折耳にするが、これは「自分が自分でなくなる恐怖」を示していると思う。では、その自分とは何かといえば、過去の体験に裏打ちされた記憶にすぎない。


 私は「私」という時間を記憶する媒体なのか? 多分そうなのだろう。私は「私」という情報である。教育・文化・宗教の目的は「コピー」なのだ。多分。


 音楽は時間である。終わらない音楽はない。きっと人生も音楽のようなものだろう。曲は終わる。だが余韻を残すことは可能だ。とすると時間を司っているのは聴覚かもしれぬ。


 物語という時間もある。起承転結、序破急など。脳神経という縁起世界は因果を志向しながら物語をつくり上げる。