無責任と全責任

 われわれは、これらのことを、どう考へたらいいのであらうか。われわれは何ごとに対しても、何の責任もないと考へるのも、われわれは世のあらゆることがらに対して、全責任を負つてゐると考へるのも、その徹底したかたちでは、われわれを宗教のやうなものに導くかも知れない。もしわれわれの存在が、他の無数の人たちの不幸の原因となつてゐて、われわれが各自その責任を負はねばならないとするならば、いまも言はれたやうに、われわれは誰もみな罪人であるといふことになるだらう。そしてわれわれの罪の深さを思へば、いかなる刑罰も、重すぎるといふことはないかも知れない。しかしわれわれは、このやうな責任に堪へることができるであらうか。無から世界をつくつた神も、あらゆる責任を負ふものではなかつた。「神義論」は、この世の悪に対して、神に責任のないことを論ずるための、弁明の書であつた。神を否定する実存主義者たちが、全世界に対して責任を負ふといふやうな、大げさな見えを張つても、その責任の意味は、極めて漠然としてゐて、ほとんど無意味に近いのではないかと疑はれる。このやうな空虚な責任なら、何ごとも「不徳のいたすところ」と勿体ぶつて、「坊つちゃん」をじれつたがらせた「狸校長」も知つてゐたはずである。わたしは責任の考へを徹底させて、われわれの罪の深さを教へる考へ方に、ひとつの宗教的真実を認めたいと思ふのであるが、しかし日常の生活においては、われわれの責任は、やはり限られたものであると考へなければならぬ。われわれは、神も負ふことをしなかつたやうな責任を、われわれの肩の上に担ふことはできない。われわれの荷は、もつと小さく限られねばならぬ。


【『責任と無責任との間 「疑はしきは罰せず」といふことから』田中美知太郎〈たなか・みちたろう〉/『日本の名随筆 別巻91 裁判』佐木隆三〈さき・りゅうぞう〉編(作品社、1998年)】