ウソの論理

 ウソにはウソの論理がある。というよりも、ウソはウソであるからこそ論理の裏付けを必要とするものなのだが、外形的なもっともらしさを抜きに、ウソは成立しない。
 真実は、必ずしも論理的である必要は無い。理屈にはずれていても、現実ばなれしていても、事実は事実だ。だからたとえば中山ミホと辻某が夫婦であることは、にわかに信じ難い話であっても、事実なのだ。到底承服しかねる事態であり、なおかつまったく理屈に合わない成り行きではあるにしても、とにかく事実は事実なのである。かように、事実は、事実であるという一点においてあらゆる無理を押し通すことができる。が、ウソは違う。ウソは無茶であってはならない。しみったれていても、胡散くさくても陳腐でも、事実は事実だが、ウソは極力もっともらしくあらねばならぬ。


【『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆(BNN、2003年)】


かくかく私価時価―無資本主義商品論1997‐2003