古本屋の覚え書き

「ただ独り、不確かな道を歩め」エリアス・カネッティ

敗戦後に闇米を拒否して死んだ裁判官

 多くの悲惨な結果を招いた、日本の官僚は有能で清潔だというこの共同幻想はいつごろ、そしてどのようにして成立したのであろうか。確信はないが、この幻想は、敗戦のすぐあとだったと思うが、ある裁判官が配給以外の米を食べることを拒否して栄養失調で死亡した事件をきっかけとして成立したのではないかと思われる。家族が闇米を手に入れて食べさせようとしても、闇米と知ると彼は手をつけなかったという。
 国民のあいだに大きな衝撃が走ったことをわたしは憶えている。
 たかが司法官僚が一人餓死したぐらいで、この共同幻想が成立したなどとは考えられないかもしれないが、当時の国民が必死にその種の幻想を求めていたという背景があってのことである。この裁判官は神話的人物となった。


【『歴史を精神分析する』岸田秀〈きしだ・しゅう〉(中公文庫、2007年/新書館、1997年『官僚病の起源』を改題)】