古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

人間は不完全な情報システムである/『なぜ、脳は神を創ったのか?』(『人はなぜ、宗教にハマるのか?』)苫米地英人

 既に『月刊苫米地』と化しつつある。それだけアイディアが豊富ということなのか。確かに頭のいい人物である。でも私は信用してないよ(笑)。断じて。書籍を乱発しているのは高額なセミナーへと誘導するためだろう。ま、行きたい人は勝手にしろ。


 ホームページにまで有料コンテンツを設けていて、15000円〜35000円という料金体系となっている。こうした振る舞いから宗教心を見出すことは不可能だ。


 であるがゆえに私は苫米地の本は好んで読むが、人間性を信頼したことはただの一度もないよ。増田俊男と似たようなもので、その知識から学ぶべきことが多いだけの話。動画を観てきた限りでは、明らかに罪悪感の欠如が見受けられ、反社会性人格障害の傾向を感じる。


 前置きが長くなってしまったが、そうであってもこの本は凄い。多くの宗教団体が手をつけていない領域に踏み込んでいる。苫米地は情報をつなぎ合わせる天才といっていいだろう。

 宗教学的な宗教の定義は、実はトートロジーになっています。ここでいうトートロジーとは、同語反復による循環論法です。
 それは、簡単に言えば、このようなことです。
 つまり、宗教とは何かといえば、「それは超越的な存在(神)についての信念などの観念であり、その観念体系にもとづいた教義、儀礼、組織をそなえた社会集団である」と定義します。そのいっぽうで、それでは超越的な存在とは何かと問えば、「宗教がその中心におく観念である」と定義するのです。


【『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(フォレスト2345新書、2010年/一部加筆・修正・改題『人はなぜ、宗教にハマるのか?』フォレスト出版、2015年)以下同】


 これは別段驚くことではない。なぜなら言葉そのものがトートロジー的性質をはらんでいるからだ。文明が進んだ現代社会は言葉を過剰に信頼している節が窺えるが、厳密にいえば言葉は象徴であり、コミュニケーションにおける翻訳的な役割しか果たすことができない。言葉を少し覚えた幼児と話せば直ぐ理解できることだ。共通の世界観がなければ言葉によるコミュニケーションは成り立たない。


 ただ、苫米地がここでいいたいことは、宗教の根幹を成す「神」という存在が、実は説明不能であることを示したものだ。つまり、「わからない対象」「理解不能な相手」を崇(あが)めていることになる。

 人間が信仰心を抱く理由のひとつ目は、自分が不完全な情報システムであるということを、誰もが何かをきっかけにして自覚することでしょう。
 情報システムとしての人間は、部分情報であり、完全情報ではありません。
 部分情報ですから、未来の出来事を知ることもできないし、自分が正しいと思って行った選択行為が、望みどおりの結果をもたらすかどうか知ることもできません。
 そして、たいていの人は人生の何かの場面で「自分はなんとおろかで弱い存在であることか」と深く気づくことになります。


 これはお見事。宗教の数学的解釈といってよい。我々が「一寸先は闇」であることを自覚するのは、周囲で不慮の事故や事件が起こった場合だ。他人の不幸や失敗を通してしか自覚できないわけだから、愚かなことこの上ない。


 思春期にもなれば、自我が揺れるあまり一度や二度は自殺を考えた覚えが誰にでもあるはずだ。親との葛藤、友人との確執によって、自分という存在が全世界から否定されたような気持ちとなる。モヤモヤした思いや、苛立たしい感情を上手く言葉にすることができない。にもかかわらず、母親は「どうしてそんなことをしたのか、ちゃんと説明しなさい」と冷ややかな口調で告げる。まるで首相に説明責任を問う野党のようだ。


 また就職してからも、完全に社会の歯車として扱われるため、どんどん自分自身が卑小な存在となってゆく。ヒエラルキーは三角形構造となっているので全員が勝者になることはあり得ない。


 私は一社員に過ぎず、一消費者に過ぎず、一視聴者に過ぎず、一票に過ぎない。今時、天下を取ろうと本気で考えているのは、暴走族の下っ端連中くらいだろう。人間のアトム(原子)化。


 本気で生きる意味を問えば、闇を見つめざるを得ない。社会でまかり通っているインチキ、不正、裏切り、はたまた世界で横行している暴力や人種差別など。で、自分なんか最初っから信じられないから、何か信じるものが必要になるという寸法だ。宗教は不安に根差している。


 そして見逃せないことは宗教原理であるはずの教義が微妙に修正されているところだ。例えば「エホバの証人の輸血拒否」なんかがそう。昔はオッケーだったらしい。

 あらゆる勝者の歴史がそうであるように、教義の純粋化を進めるプロセスでそのために都合の悪いことは消去されてきたに違いないからです。


 全ての宗教が教団を形成し、歴史を育む以上、スターリニズム的修正が加えられる。あるいは削除。臭いものには蓋(ふた)。ま、昔の便所みたいなものだ。汲み取り式の頃は和式の便器に木の蓋がかぶせてあったのだよ。


 1616年と1633年の二度にわたってガリレオ・ガリレイは有罪判決を下された。この誤りをローマ教皇が認めたのは1992年のことであった。宗教上の断罪は神に否定されたも同然であるから、法律違反よりも罪深いものだ。それが間違ってたんだっていうんだから、堪(たま)ったもんじゃないよ。


 大体さ、キリスト教なんてどれだけの人間を火あぶりにしてきたことか。宣教師を送り込んで他国を宗教的に侵略するのが連中の手なんだよな。そこに覇権の根源があると思うよ。

【釈迦が唱えた無神論も宗教ですし、スピリチュアリズムや毎朝テレビで流される血液型占いや星座占いも宗教といわなくてはなりません】。「それを信じれば、いいことがありますよ」と人々の脳に働きかけ、なんら科学的に根拠のないことを唯一の価値であるかのように受け入れさせてしまうものは、すべて宗教だということです。


 ブッダ無神論っていうのは原始仏教のことね。これまた実に巧みな説明である。だが物事には必ず二面性がある。じゃあ不信に陥ればいいのかといえばそうではない。人間不信の社会で信頼の輪を広げる生き方が正しいことは言うまでもない。


 要は何らかの絶対的な価値観を持ってしまうと、その人の思考回路は閉ざされてしまうということだ。それこそ「教義内での循環論法」となってしまう。


 ブッダは人間の行為を重んじた。それが「業」(ごう)の思想である。

 生れによって〈バラモン〉となるのではない。生れによって〈バラモンならざる者〉となるのでもない。行為によって〈バラモン〉なのである。行為によって〈バラモンならざる者〉なのである。


【『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳(岩波文庫、1958年)】


 執拗なまでに入会を強要する宗教はインチキであると断言しておこう。本物の宗教は宗教的次元の行為を問うものだ。宗教とは生の本源を意味するもので、些末な教義の論証に明け暮れる姿勢とは異なる。生と死が脈々と流れる大河を悠然と泳ぎ抜く生命力を与えることが宗教の使命であろう。


 以上で前半の書評を終える。後半はまたいつか。


宗教とは何か?
岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」に学ぶ その二
欽定訳聖書の歴史的意味/『現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人