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- 若き斎藤秀三郎
- 超一流の価値観は常識を飛び越える
- 「学校へ出たら斃(たお)れるまでは決して休むな」
- 戦後の焼け野原から生まれた「子供のための音楽教室」
- 果断即決が斎藤秀三郎の信条
- 斎藤秀雄の厳しさ
昭和23年9月
子供のための音楽教室
吉田秀和 井口基成 斎藤秀雄 伊藤武雄 柴田南雄
【『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪〈なかまる・よしえ〉(新潮社、1996年/新潮文庫、2002年)以下同】
家政学院の周囲はまったくの焼け野原だった。校内には戦争で焼けくずれた建物の跡が残っていて、そこは休み時間には幼児たちにとって格好の遊び場となった。第1回目の音楽教室には約30名の生徒が応募したが、そのなかの一人であるのちのピアニスト中村紘子は最年少の4歳だった。
毎週土曜日の午後になると、吉田をはじめ、やがて日本の音楽界を背負うことになる演奏家、作曲家、評論家の講師たちがそろった。教室の月謝は最低であり、講師に払う金もなかった。また、払う意志もなく、講師たちは他からの収入で生活するのを当たり前としていた。
この時期、斎藤や井口は、巌本真理を加えたトリオで、40回もの国内演奏旅行をしていた。斎藤にとってはこれが収入といえば収入の道だった。1954年(昭和29年)の資料によるが、この年4月、柴田南雄の給与は4760円、伊藤花子が3510円、合奏科の河野俊達が3080円である。この当時、大学卒業者の平均初任給は8700円だった。
斎藤は、教師の良否が生徒の生涯を左右すると考えていた。「一に教師、二に教師、三に親、四が子供」といい、まず良き教師を選べと言った。いくら才能があっても教師が良くなければ「東京に上らなくてはいけないのに、下関に下るようなもの」といい、「子供はいかようにでもなる。生徒には教師を選ぶ権利があるのに、それが逆になっている」と豪語した。斎藤は、訪ねてきた生徒にも自分の弟子を批判するような口調で遠慮なく、否定すらする。その生徒の師との人間関係を考えて丸く納めるというような日本的発想はなかった。
この教室が母体となって4年後に桐朋学園音楽科が創設されるが、桐朋になってからもこの教師選択の自由は継続された。
(※左が単行本、右が文庫本)