だまし絵から探る視点と正義


「婦人と老婆」と題した有名な錯視画像がある。ザ・だまし絵ともいうべきもので、初めて見た時は腰を抜かしそうになった。もう20年以上前のこと。



20100828201041


 画面中央の右上部分を「耳」と見れば後ろ向きの乙女で、「目」と見ればうつむき加減の老婆に見える。これぞパラダイムシフト。


 最近、ツイッターで「正義」についてやり取りしているのだが、この錯視画像を通して考えてみたい。


右翼「お前な、この絵はどう見たって老婆だよ。現実から目を逸らすな」
左翼「いや君は間違っている。これは断じて乙女の絵だね。労働者の勝利を見つめている」


 双方主張を譲らず。何と言っても恐ろしいのは、相手に見えているものが自分には見えていないという現実だ。それどころか視点を動かそうともしない。これを固定観念という。


 と、そこへ次々と色々な人がやってくる──


心理学者「これは“だまし絵”といって、視点をずらすことで老婆にも乙女にも見える仕掛けがあるのですぞ」
科学者「冗談言っちゃいけません。紙も絵の具も元をただせば原子です。そして色というのは光の反射です。視覚と脳あるいは物質と光など、テーマによって問題の本質が異なる」
プログラマー「そうは言っても所詮デジタル画像ですから“点の集まり”に過ぎませんよ。コンピュータが電気信号を二進法で演算処理しているだけのこと」
哲学者「そもそも“存在”をどのように捉えるかが問われているのですよ」
宗教者「ただ祈りなさい。あなたに祝福が訪れますように」


 話はまとまらない。皆が皆、「正しいのは自分だ!」と口角泡を飛ばして、今にも胸ぐらをつかまえようとする勢いだ。そこへ少年が通りかかった──


小学生「ヘエー、面白いな! 老婆にも乙女にも見える絵だなんて」


 一枚の絵を巡る争い。我々人類は一枚の絵を皆で楽しむことすらできない。まして、国家や民族、神や仏が絡んでくれば闘争の度合いは深刻さを増す。


 正義は自分の視点に固執することなのだろう。だとすれば、正義を主張するよりも我々は瞑目すべきなのだ。そして静かに相手の話に耳を傾けることができれば、今まで見えなかったものが、きっと見えるようになるはずだ。


 クリシュナムルティは「比較があるとき、善は消えるのです」(『あなたは世界だ』)と語っている。そして次のようにも言っている──

 知性は不正行為、殺害、戦争を合理化します。それは善を、悪の正反対のものとして定義します。しかし善には、反対のものはありません。もし善が悪に関係しているのなら、善はそのなかに悪の種子を有していることになるでしょう。そうなると、それは善ではなくなります。しかし知性は、それ自体の分裂させる能力のために、善の豊かさを理解することはできません。


【『学校への手紙』J・クリシュナムルティ/古庄高〈ふるしょう・たかし〉訳(UNIO、1997年)】


 正義=善ではない。正義は敵対関係の中で反転する。我々の正義は敵からすれば不正義となる。泥棒にとっては盗むことが正義である。それはそのまま市民にとって不正義となる。


 正義は対立概念である。「善に対立するものはない」というクリシュナムルティの指摘はあまりにも重い。そして善は固定観念ではなく、生の中で脈々と流れる営みなのだろう。独りだけの善もあり得ない。善は関係性の中で発揮されるからだ。



学校への手紙