古本屋の覚え書き

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最澄〜大乗戒壇建立は具足戒の否定

 晩年の最澄には、しのこしたことがあった。大乗の戒壇院の設立である。806年(大同元)には百余名に大乗の戒をさずけている。これは唐において天台宗の道邃(どうずい)からさずけられたものであり、それを最澄は弟子たちにさずけていたわけであるが、この大乗戒は正式な比丘・比丘尼となるための具足戒とは本質的に異なっていた。具足戒を受けた場合、比丘は250戒、比丘尼は384戒を守らねばならないが、大乗の梵網戒の場合はむしろ心がまえをすればそれでよかった。大乗戒は在家・出家の区別なくさずけることができ、比丘・比丘尼・沙弥(しゃみ/僧になる前の修行者)・一般信者などの区別はなくなる。
 ようするに、大乗戒なるものは戒の放棄である。僧(比丘)と俗人(在家)との違いは、戒を守っているか否かにある。戒を保たない者はすなわち僧ではない。南都六宗の僧たちはそのように考えていたであろう。最澄は伝統的な「小乗の戒」つまり具足戒は、少なくとも日本の当時の仏教徒にとって不必要だと主張したのだ。
 日本では753年、鑑真が14名の弟子の僧を連れて来日し、東大寺に仮に設けられた戒壇で授戒がおこなわれて以来、授戒の制度が受け継がれていた。当時は中央(奈良)の東大寺、東国の下野(しもつけ)薬師寺、西国の筑紫(つくし)観世音寺の3ヵ所に戒壇院が設立されているのみであり、他の場所では具足戒を与えることはできなかった。最澄比叡山に新しい戒壇院を建て、しかもそこでは僧たちに具足戒をさずけず、大乗戒をさずけたいと提唱した。
 最澄は生涯を通じて常に人々、それも時の権威や実験者たちを驚かした。一つの新しいことをすばやくあざやかにやってみせ、人々が彼の意図を理解した頃には、彼は次の新しいことを持ち出していたのである。
 817年(弘仁8)、徳一への反論を公表した最澄は、翌年818年、「今より以後、声聞の利益を受けず(中略)みずから誓願して250戒を棄捨す」(叡山学院『伝教大師全集』世界聖典刊行協会、新版5巻、1989年、附33および、田村晃祐最澄』、192頁)と宣言した。19歳の時東大寺で受けた具足戒を、その時52歳の最澄は捨てたのである。周囲は驚き、かつ困惑したにちがいない。一宗の責任者が「自分は僧であることをやめる」と言い出したからだ。
 最澄個人が具足戒を捨てたといっても、奈良仏教は表面だった反応をしたわけではなかった。天台法華宗内部のことであり、最澄個人のことでもあったからだ。しかし、翌819年(弘仁10)、最澄が大乗の戒壇院建立のため申請書、いわゆる「四条式」を朝廷に提出すると、南都の僧たちは猛反発した。南都の僧たちにすれば、最澄の考え方は許すべからざることだった。仏教教団のあり方そのものに関することだったからだ。


【『最澄空海 日本仏教思想の誕生』立川武蔵〈たちかわ・むさし〉(講談社選書メチエ、1998年)】


最澄と空海―日本仏教思想の誕生 (講談社選書メチエ)