日本の戦争遂行を考えるときに、預金部という制度を抜きにしては語れない。もし、郵貯、簡保、年金という預金部資金に頼らず、日清・日露戦争からアジア太平洋戦争に至る戦費をすべて税金で徴収したら、いくら戦前の日本でも厭戦(えんせん)気分が蔓延(まんえん)していたであろう。
ところが、この預金部制度が戦後にほぼ無傷で生き残ってしまう。1954(昭和26)年9月8日、わが国はサンフランシスコにおいて連合諸国との間で講和条約に調印し、翌年4月28日からの発効によって独立を回復することになる。その直前の50年度に政府は「資金運用部資金法」および「資金運用部特別会計法」を制定、51年度の当初から預金部に代わり「資金運用部」を発足させていた。戦後の財政投融資制度の構築である。
ここでの最大の問題は、創設以来の悪しき本質が、まったく修正されることなく戦後に引き継がれたことにあった。
郵貯、簡保、年金は、預ける側の国民にとっては大切な個人資産である。しかし、預かる側の政府にとっては税外の国庫収入という程度の認識でしかない。返済することにいっさい頓着(とんちゃく)することなく、あたかも税金と同じような感覚でこの「裏収入」を使い切ってしまうという悪弊が、そっくりそのまま戦後に残されてしまったのである。しかも、本来は政府の暴走を抑制すべき議会までもが、「族議員」に代表されるように、官僚と結託して、後先を考えない使い切り方式に積極的に加担してしまう。
【『「お金」崩壊』青木秀和(集英社新書、2008年)】