古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

コジェーヴ「語られたり書かれたりした記憶なしでは実在的歴史はない」

 それでは、終焉すべきものが終焉した後で、言い換えれば「起源とテロスの不在」のただ中にあって、われわれにとっての「歴史」はいかにして可能なのか。このように問いかけるとき、われわれに一つの示唆を与えてくれるのは、やはり(アレクサンドル・)コジェーヴが先の長大な「注」に続いて付けた2行ばかりの短い「注」である。対応する本文とともに、以下にそれを掲げておこう。

 まず実在する歴史が仕上げられなければならず、次いでこの歴史が人間に物語られねばならない(本文)

 加えて、歴史的想起なしには、すなわち語られ(oral)たり書かれ(ecrit)たりした記憶なしでは実在的歴史はない。(注)


 コジェーヴは前半の本文において、まず実際の歴史的出来事が生起し、さらには完結し、しかる後にその出来事が人間に対して物語られるべきことを説いている。彼によれば、ヘーゲルの『精神現象学』は、実在する歴史的発展が終わった後に、それをアプリオリな形で再構成した一つの物語なのである。しかし、後半の注においては、その時間的順序を逆転させ、「語る」あるいは「書く」という人間的行為によってはじめて実在的歴史が成立することを述べている。その語るという行為を「物語行為(narrative act)」と呼べば、実際に生起した出来事は物語行為を通じて人間的時間の中に組み込まれることによって、歴史的出来事としての意味をもちうるのである。ここでコジェーヴが述べているのは、「歴史」は人間の記憶に依拠して物語られる事柄のうちにしか存在しない、という単純な事実にほかならない。


【『物語の哲学』野家啓一〈のえ・けいいち〉(岩波現代文庫、2005年/岩波書店、1996年『物語の哲学 柳田國男と歴史の発見』改題)】


物語の哲学 (岩波現代文庫)