仏教における知性と信仰

松山●それで中村元先生とかいろいろな方が教えて下さっていることですが、案外、初期のジャイナ教と仏教はいっていることは同じだし、用語も共通のものが多い。それだけではなく、バラモン教などのいったことと違うことが強調されているけど同じところもいっぱいあって、本当の釈迦如来というかゴータマという人は非常に人格的な感化力が強い、いい意味でのカリスマではあったんだろうけど、何が独特の教説であったかは、あまり分からない可能性もあると思うんです。(中略)
 だから無明の除去(※十二因縁)――現代の言葉でいえば理性によって真実を覚知しそれに基づいて生きるというのは――理想主義としては非常にいいけど、それを全ての人間に要求するとすれば大体不可能だということから、どうも釈迦仏教というものは理想の形で、ごく少ない人にはかなりの程度に実践できるにしても、普通の人にはできっこない、あまりにも厳しいし、またある意味では、人間性について楽観視しすぎている教えだったという気がするわけです。
 そのために密教に至るまで、お互いに全く違う、お釈迦さまがおそらくいわなかった教えによって救われようという、いろいろな分派が生じちゃったと思うんです。
 そこへいくと、『法華経』は、お釈迦さまの『法華経』で説かれたことを心から信ぜよということをもっとも重要視していて、知による無明の根絶を不可欠とする、それまでの仏教というものとはつながらないんですね。それでも、一つだけいえるのは、お釈迦さまがいなければ『法華経』もできなかったことは確かだから、そういう意味で釈迦仏教の延長上にあることも間違いないとは思うけども、やっぱりダルマというものに対する信頼感を徹底的に持つことで『法華経』精神が成り立つのではないか。


【『蓮と法華経 その精神と形成史を語る』松山俊太郎(第三文明社、2000年)】


蓮と法華経 その精神と形成史を語る