もしキリスト教が、ある時期に天体観測を禁止していたとすれば、その後の古典物理学の発展がどうなったか、わからない。
しかし、禁止の動機が教義を守るためだけであれば、そうした宗教は、いずれ破綻する。その教義が、完全に閉じた体系にならざるをえないからである。ところが、教義を担う脳の方は、残念ながら閉じた体系ではない。ホメイニ師くらいに年をとれば、新しいものが、ほとんど脳に入らないことは、だれでも想像がつく。そういう人には、閉じた体系で十分であろうが、若い人はそうはいかない。脳は、若いほど、開放系の性質が強いからである。
宗教は、一面では知覚系における認識を規定し、他方ではそれに対応して、運動系における倫理を定める。もちろん、知覚系の認識といっても、いわば世界観のレベルであるのと同様に、運動といっても、手足の動きのような細かいものではない。むしろ、抽象的な、あるいは大まかな行動規定となる。この二分は、脳の構造に、典型的によく対応している。われわれの大脳皮質も、中心溝という溝を境にして、前は運動、後は知覚であり、両者はさまざまな経路で連合するからである。宗教の合理性は、この両者の結合の、ヒトにとっての最適性の追及ではないかと思われる。しかも、皮質だけではなく、下位の中枢がしばしば絡んでいるはずである。
「下位の中枢」とは本能、情動、欲望か。我々の心が分裂しているのは、脳が二つに分かれているためである。これがそのまま世界の分裂として現れている。養老孟司の文章には気難しそうな性格が顕著で好き嫌いが分かれるところであるが、そこに流れているのは「わかる奴だけ、ついてこい」といった姿勢だ。つまり、読者に対して媚びるところがない。
(※左が単行本、右が文庫本)