新約聖書「働かざるもの食うべからず」

 労働に対する嫌悪は、時の始まり以来の規範であったとすら言えるかもしれない。創世記のなかで、神はアダムとイヴをエデンの園から追放するとき、彼らに多くの呪いを掛ける。イヴには出産の苦しみと夫への服従を与え、ふたりには「君は額に汗してパンを食(くら)う」と告げ、労働生活を与える。つまり生存に不可欠な労働とは、ユダヤキリスト教の伝統にあっては原初の呪いであり、原罪に対する罰なのである。古代ギリシャ文明において神々と人間とを峻別するのは、神々が「労苦と不幸から遠く離れて」いることだとヘシオドスは書いている。彼は金の時代に生を受けられず、堕落した鉄の時代に「昼夜の絶え間ない苦痛のなかで」苛酷な労働をしながら生きるよう呪われたみずからに絶望したのだった。古代ギリシャ文化における労働とは、堕落した世界のなかで死すべき人間に課せられた呪いであり、奴隷の領分、頽廃の罰、あるいは債務であった。そこには今日の私たちが知るような労働観はなく、ただ強制のかたちがあるだけだ。農奴や召使いたちが労働について何を思ったのか、私たちには知る由もない。彼らの読み書き能力のなさに加えて、知識人たちは奴隷や召使いの経験に思いを馳せる価値を見いださなかったことから、彼らの記録はほとんど残されなかったためだ。アリストテレスにとって、こうした労働者はたんなる「人間の道具」であり、彼らにはただ敏捷さや効率の良さの違いがあるだけだ。プラトンは『国家』のなかで、彼らにできるのは働くことだけで、それが彼らに適したことであり、それに対し「市民」はより高次の物事に適していると述べている。
 旧約聖書には、怠惰や無精さを禁ずる箴言がいくつかあるが、そこでも労働は主として障害、面倒、必要、よくて義務とされる。それは自己価値や自己愛を根づかせるための機会や、純粋な満足の源泉などではまったくなかった。新約聖書パウロ書簡にある教訓は、私たちの耳に聞き憶えのあるものだ――「働きたくない者は、食べてはならない」と彼はテサロニケ人に向けて書いている――日曜礼拝の何千という説教が示唆するように、パウロは創世記にある神の呪いからの重要な変化を象徴している。彼は労働の価値を最初に広めたスポークスパーソンであった。とはいえ、パウロはまだ、労働はなによりもまず義務であると主張している。その後の説教者たちの教えにより、勤労のモラルが内面化していくのは、宗教改革期になってからのことだ。それ以前の労働は依然として強制であり、悪魔の誘惑を避ける道であり、よくて人間の本分であった。労働は人間の表現というよりも、第一に人間を貶めるものだった。


【『働かない 「怠けもの」と呼ばれた人たち』トム・ルッツ/小澤英実〈おざわ・えいみ〉、篠儀直子〈しのぎ・なおこ〉(青土社、2006年)】


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