失われた時を求めて、というのではない。僕はそのかぎりにおいて、池田の町にいささかの感傷の覚えもなければ望郷の念もないのだ。照合すべき過去が見えないとき、幻想に心情を寄せることは詮ないし、幻影に向けてシャッターを切ることもできない。さらに、過去を現在に、現在を過去に重ね合わせて見ることが記憶を検証することではない。もとより記憶とは、自身の内部(なか)に懐かしく立ち現れる、かく在りきイメージの再現行為などではなく、現在(いま)を分水嶺として、はるか前後へと連なっていく大いなる時間に向けて、したたかにかかわっていく心の領域のことだと思うからである。