古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

北海道の言葉は過去形が多い


 私は若者言葉に嫌悪感を覚える者の一人だ。ニュアンスを強調した稚拙な省略形に違和感を覚えてならない。思考は言葉で織りなされる。つまり、言葉が思考を支配しているといってもよい。その言葉が崩れる時、思考も安易になってゆくことだろう。


 正確な言葉は、何といっても気持ちがいい。言葉にも立ち居振る舞いがある。やはり、立ち姿は美しくありたいものだ。


 一方、正確性に固執するあまり、時に東京中心の発想となって方言までが貶(おとし)められることがある――

 つづいて、「よろしかったでしょうか」に代表されるおかしな「過去形」について報告したい。先月、羽田空港内の出発ロビーにいたところ、奇妙なアナウンスが流れた。女性の声で「日本航空9時○分発×行きで出発の予定でした○○様、〜」と、搭乗客に呼びかけている。内容は、もうすぐ飛行機が出るからゲートに急いで来てくださいだったと記憶している。しかし、その時、壁の時計を見れば、まだ9時にもなっていない。アナウンスはこれからのこと(未来)について言及していたのだ。なのに「予定でした」というのだ。どういうことか、これも「〜よろしかったでしょうか」の悪影響なのか。


【鏡の言葉 第5回 なんでも「〜させていただく」社会の裏にあるもの/川井龍介】


 この筆者は、北海道の言葉に過去形が多いことを知らなかったのだろう。道産子の夜の挨拶は「おばんでした」と言うのだ。お得意さんからの電話には「毎度さんでした」と言う。

 上のリンク先では、断り文句として「よかったです」を挙げている。確かに言いますな(笑)。


 同様に「ら抜き言葉」というのも北海道ではザラである。つまり、若者言葉と方言を同じ俎上(そじょう)で論じてしまえば、地方特有の言葉は「悪しきもの」となりかねない。


 川井龍介の文章がすっきりしないのは、何となく頑迷の匂いがするためだ。私は美しい言葉を好む者であるが、「崩す」営みから新しい文化が生まれることまで否定するつもりはない。日本の文化といえば平仮名であるが、これだって漢字を崩しまくったものだ。


 さまざまなものが崩壊する中で、本物だけが残ればいい。