ガッサーン・カナファーニー

 1936年、英国委任統治下のパレスチナの、地中海岸の都市アッカーで弁護士の家庭に生まれたカナファーニーは、1948年、ユダヤ人国家の建国により、12歳で難民となった。ダマスカスの難民キャンプで苦学したのち、56年、クウェイトへ渡り、国連パレスチナ難民救済事業機関が運営する学校で美術の教鞭をとる傍ら、ジャーナリズムの世界に入り、60年、ベイルートへ。そこで、ジャーナリストとして健筆をふるいながら、同時に、PFLPパレスチナ人民解放戦線)のスポークスマンとして活動するが、72年5月にイスラエルのロッド空港で起きた日本赤軍による機関銃乱射テロについてPFLPが犯行声明を出した数週間後の72年7月8日、イスラエルの情報機関が自動車に仕掛けた爆弾によって幼い姪ラミースとともに暗殺される(イブラーヒーム・ナスラッラーの小説『アーミナの縁結び』がカナファーニーに捧げられたオマージュであるとすれば、イスラエルの狙撃兵に射殺される、主人公ランダの双子の妹の名がラミースであるのは偶然ではないだろう)。
 36歳で亡くなるまで、カナファーニーは、ナクバによってパレスチナを追われ、異邦で難民として生きる同胞たちの生の経験をこそ、ひたすら小説作品に形象化し続けた。いまだ完了せぬナクバのその後を生きる難民たちの生を、それが生きられているまさにそのときに小説に描いた、同時代の稀有な証言であった作品はやがて、カナファーニーの作家的成熟とともに、難民という実存から、人間の生と祖国のありかたを根源的に問うものへと深化してゆく。だが、その未来における思想的投企は、作家の早すぎる死によって、突然、絶たれたのだ。カナファーニーの暗殺は、ロッド空港での日本赤軍によるテロルに対する報復とされているが、PFLP幹部の中でカナファーニーが標的となったのは、イスラエルによるナクバのメモリサイド(※記憶の抹殺)に対して、カナファーニーがペンによって、ナクバの記憶を、そして、世界から忘却されたパレスチナ人の生を鮮烈に描くことで、パレスチナ人のイメージを世界の記憶に刻みつけようとした作家であったからにちがいない。


【『アラブ、祈りとしての文学』岡真理(みすず書房、2008年)】


アラブ、祈りとしての文学