歴史とは何か/『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘

 物理学的観点からすれば、絶対的な位置も絶対的な時間も存在しない(「空間内に絶対的位置は存在しない」)。ということは、歴史も相対的なものであり、どこに中心軸を置くかで全く別の物語になる。


 現代にあって我々が学校で学ぶ歴史は、いずれも国家によって記述された歴史である。だが13世紀には、イギリスもフランスもドイツもイタリアもスペインも存在していなかったのだ。岡田英弘はこんな簡単な例を示して、歴史に対する固定観念を打ち破ってくれる。


 そして、「歴史の本質」に迫る著者の筆鋒は鋭さを増す――

 歴史とは何か。
 普通、「歴史」と言うと、過去に起こった事柄の記録だと思いがちである。しかし、これは間違いで、歴史は単なる過去の記録ではない。
 歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことである。
 ここでは先ず、歴史は人間の住む世界にかかわるものだ、ということが大事である。人間のいないところに、歴史はありえない。「人類の発生以前の地球の歴史」とか、「銀河系が出来るまでの宇宙の歴史」とかいうのは、地球や宇宙を一人の人間になぞらえて、人間ならば歴史に当たるだろうというものを、比喩として「歴史」と呼んでいるだけで、こういうものは歴史ではない。
 歴史が、時間と空間の両方にかかわるものだ、ということは、広い世界のあちこちで、またこちらで、あるいは先に、あるいは後に、いろいろな出来事が起こっている、そうした出来事をまとめて、何かの順番をつけて語るのが歴史であるということであって、これには誰も異論はあるまい。
 ただ、歴史が対象とする時間と空間が、どちらも一個人が直接体験できる範囲を超えた大きさのものであることは、きわめて大事なことである。全く一個人の体験の範囲内にとどまる叙述は、せいぜい日記か体験談であって、とうてい歴史とは呼べない。自叙伝は一種の歴史と見なしてもいいが、それは自叙伝を書く当人が住んでいる、より大きな世界の歴史の一部分を切り取って来たものだからである。
 歴史の対象になる世界は、一個人が到達出来る範囲をはるかに超えた大きなものである。その中のあちらこちらで同時に起こっている出来事を、一人が自分で経験することは不可能だし、自分が生まれる前に起こったことを経験するのは、なおさら不可能である。そういう出来事を知るためには、どうしても自分以外の他人の経験に頼らなければならないわけで、他人の話を聞いたり、他人の書いたものを読んだりすることが、世界を把握し、解釈し、理解する営みの第一歩になるのである。
 ところで、時間と空間では、空間のほうがはるかに扱いやすい。自分の両手のとどく範囲を超える空間は、歩いて測ることが出来るし、遠い所でも何日かかければ、行って帰って来ることも出来る。つまり空間は自分の体で測れる。
 ところが時間のほうは、そうはいかない。時間は、行って帰って来れるようなものではない。その上、時間は、感覚で直接とらえられるものではない。何か運動している物体を見て、その運動した距離に換算して、初めて「時間の長さ」を感じることが出来る。言い換えれば、我々人間には、時間を空間化して、空間の長さに置き換えるしか、時間を測る方法はない。
 それではどうすれば時間の長さを測れるかというと、それには規則正しい周期運動をしている物体を見つけて、その周期を単位にして、時間を同じ「長さ」に区切るのである。(※一日、一月、一年というように)


【『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘(ちくまライブラリー、1992年/ちくま文庫、1998年)】


 凄い文章だ。学問の世界の険しさまで感じさせる。安易な迎合、踏襲に甘んじるところがない。孤高の矜持(きょうじ)が行間に満ちている。


 歴史とは「認識するもの」であった。歴史という地図によって、自分の位置を知ることが可能となる。一人ひとりが過去の歴史をどう解釈するかで、未来の歴史もおのずと変わってくることだろう。そして親から子へ、人から人へと伝えられる何かが文化を形成し、歴史のうねりと化すのだ。


 情報化時代はどこかチマチマしている。些末かつ煩雑な情報が溢れているためだろう。大人物を育てるためには、やはり歴史に学ぶ必要がある。見識といっても史観に尽きると私は思う。


世界史の誕生 (ちくま文庫)