古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

失った少年時代を生き生きと蘇らせる/『ゾマーさんのこと』パトリック・ジュースキント

 パトリック・ジュースキントはドイツの作家。名手といってよい。その作品は職人技の冴える一品となっている。傑作『香水 ある人殺しの物語』とは打って変わった小品で、小中学生向けと思われる。佐野洋子が絶賛していたので読んでみた。


 少年時代の起伏に富んだ喜怒哀楽が、物静かなタッチで描かれている。そこにはゾマーさんという不思議な男性が登場する。ゾマーさんは年がら年中、ただひたすら歩いていた。村の誰人とも言葉を交わすこともなく、何かに取り憑かれたように歩いていた。風が吹こうが、雹(ひょう)が降ろうがゾマーさんは歩いた。


 少年時代のやり場のない怒り――誰もが経験したであろう修羅の炎をパトリック・ジュースキントは巧みに描き出す――

 むしろ一つの腹立たしい認識のせいだった。この世はいやしさにみちている。徹底して不正で、邪悪で、卑劣きわまるいやしさずくめ。そして誰もがこのいやしさに関与している。ひとり残らず、全員がそうなんだ。母さんは、ちゃんとした自転車を買ってくれなかったじゃないか。父さんだってそうだ。いつも母さんのいいなりじゃないか。兄さんも姉さんもそうだ。ぼくが立ち乗りしなくてはならないのに、いつもキャンキャン吠えついてくるだけじゃないか。散歩の人たちがそうだ。用もないのに湖水のまわりをぶらついて邪魔をする。作曲家のヘスラーだってそうだ。手のかかる曲で苦しめる。フランケルさんはありもしない罪を言いたてた。嬰ヘ音のキーに鼻汁をくっつけた……とどのつまりが神さまだ。めったにないこと、せめても一度の頼みごとだというのに、押し黙っていて何もしてくれなかったじゃないか。不正な運命にもてあそばれるままにしてたじゃないか。誰もが悪辣だ。悪だくみをしている。こんな世の中に何の意味がある? 何のかかわりがある? こんな世界がどうなると、何てこともないじゃないか。やつらはいやしさのままに胸をつまらせるがいい!


【『ゾマーさんのこと』パトリック・ジュースキント、ジャン=ジャック・サンペ絵/池内紀〈いけうち・おさむ〉訳(文藝春秋、1992年)】


 世界からのけ者にされたような覚えは、誰しも一度や二度は経験したことがあるはずだ。怒りのあまり、子供の心はすべてを破壊してやろうと企て、残酷な空想に耽(ふけ)る。そして、「自分なんかいない方がいいんだ」と奈落の底へ叩き落されるのだ。


 大人になることは、傷つかなくなることであった。そして酸いも甘いも噛み分けているうちに、段々と心が鈍感になってゆく。世界は徐々にコンクリートの壁のような色と化して、精彩を失う。傷つかないということは、戦っていない証拠であった。牙をもぎ取られた大人は、権力者に逆らうことなく従順な人生を淡々と歩んでゆく。


 最後にギョッとさせられる結末が控えている。「エ、どうして?」と誰もが思うに違いない。ここで初めて読者はゾマーさんの正体を考えざるを得なくなる。当初私は「時間」の暗喩かと思ったが、数日を経た今、「文明」なのだろうと考えている。


 時間も文明もひたすら前へ進む。後戻りできない人生を考えさせられる作品である。

付記 2009-04-15


 何と、ゾマーさんは実在したようだ。しかも子供までいた。内容の殆どが事実に基づいているそうだ。


ジュースキントさんのこと


 それでも不思議なことに私の所感は変わらない。書き忘れたが、主人公の少年が木に登ることで未来(あるいは時間)への垂直軸を示し、歩き続けるゾマーさんは水平軸を巧みに表している。著者が過去を振り返る営みは、「木を下りる」行為でもあった。