これは一昨年(おととし)に読んだ。私の知らないうちに谷沢永一が保守派の論客となっていた。しかしながら、プラグマティズムの要素が色濃く、実際的な発想となっている。
戦時において、時に上官の命令を無視することで勝利を得るケースがある。だが、軍隊というものは体面を重んじることで成り立つ世界だ――
東郷平八郎は無謬の将軍ではない――谷沢
これは日本海海戦のときですが、この「算」のために憂き目を見た将軍がいます。それは海戦に秘められた嘘から始まっている。日本海で日露両軍の艦隊が出会います。バルチック艦隊の旗艦スワロフには司令長官のロジェツトウェンスキーが乗っている。その舵のところに日本の連合艦隊の砲弾が命中して、スワロフは迷動します。
ところが海戦の難しいところは、味方の被害はよく分かるのですが、敵の被害が分からない。それで連合艦隊司令長官の東郷平八郎は、〈これはスワロフが日本の第一艦隊をすりぬけて、ウラジオストックへ行こうとしているのだ〉と判断し、「左へ回れ」と命令を下す。
ところが、第二艦隊の参謀長藤井較一が東郷の判断を無視して、「違う! 方向転換ではなく、あれは迷走しているのだ」と叫び、第二艦隊司令長官上村彦之丞に「わが艦隊は直行すべきです」と訴えます。上村は「分かった」と答えて、そのまま真っ直ぐスワロフへ突っ込んでいく。
これは大変なことです。間違っていれば、軍法会議です。
第一艦隊は北へ向かって大きく迂回している。軍艦はいったん方向を転換すれば、すぐにそれを修正することはできません。結局スワロフは沈没し、連合艦隊は大勝利をおさめます。
したがってこの海戦の死命を決したのは、藤井較一と上村彦之丞ということになります。ところがこの二人は、顕彰されません。
二人を顕彰すれば、東郷が間違っていたことを天下に広めることになります。だから藤井は中将どまり、上村は大将どまりで、功績を消されてしまうわけです。こうして、無謬(むびゅう)の将軍としての東郷の名が残ることになるわけです。
日露戦争では同じようなことが、他にもあります。旅順の二百三高地で多くの兵士の無駄な血を流した第三軍の司令官は乃木希典、その参謀長は伊地知幸介で、この二人は乃木が伯爵、伊地知は男爵になります。
ところが、伊地知の無能のために殺した兵士の数は無数です。日本陸軍としては、聖将乃木を讃えるために、乃木は間違わなかったことにしなければならない。そこで間違いに間違いを重ねた乃木に伯爵を与え、無能以上の罪悪だと司馬遼太郎が言うほどの伊地知に男爵を与えています。つまり、まっとうな論功行賞は、すでに日本では行われなくなっていたのです。
目的はただ一つ――体制擁護である。システム維持と言ってもよい。いかなる組織においても、現場や最前線にいる人々は何がしかの矛盾に悩まされている。なぜなら、「自分がやりたいこと」と「上司がやらせようとしていること」は往々にして一致しないためだ。システムはピラミッドで構成されている。つまり、上司の言いなりになることが最も正しい価値となる。
組織は、合理的かつ効果的に目的を果たすために形成される。だが一旦組織が出来上がってしまうと、組織を維持する方向へと慣性が働く。そして組織は、いつだって構成員に犠牲を求めてやまない。
「人体こそ理想的な組織」という話もよく耳にする。そうであれば、平然と手足を犠牲にするような組織が発展できるわけがない。足が痺れていれば走れない。指先がかじかんでいれば自由に物をつかむこともできない。
公正な信賞必罰が行われなければ不平等が蔓延する。それは、もはや組織ではなく村に過ぎない。