古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

「わかる」とは/『「分ける」こと「わかる」こと』坂本賢三

「分ける」ことは「殺す」ことである、と。つまり腑分け。それだけでは「わかる」ことにはならない。一旦分けて、再構成することが「わかる」ことである、と。各パーツの役目と機能を知らねば、修理はできない。いやはや卓見。

 考察すること一般を、俗に「分析する」といったり(政治分析、経済分析、現状分析など)、理解すること一般を「分かる」といったりするのであるが、ただ、やみくもに分析したり分解したりすることで、つまりバラバラにすることで「わかった」ということにはならない。分析といっても、分析することで原理に到達し、そこから再構成してみてはじめて、「わかった」ということになるのである。そしてこの基本線は、アリストテレスからデカルトまで、古代哲学から現代科学まで貫かれているといってよいであろう。
 分けてしまうことは、ヘーゲルが『精神現象学』の序論で述べているように、じつは、殺してしまうことである。植物を根・茎・花と分解してしまえば、植物は死んでしまう。動物も解剖すれば死んでしまう。無生物でも、たとえば水を酸素と水素に分けてしまえば、水でなくなってしまう。だから、それらの要素からもう一度もとの姿を再生するのでなくては、対象を把握したことにはならない。分ける働きは、既に述べたように悟性(Verstand)のものである。
 ヘーゲルは悟性を超えて再生することを、弁証法という仕方で綜合したのであるが、彼は、だから悟性はだめだとはいわなかった。悟性を排除して、直感的に生きた全体をとらえることを主張したのはシェリングである。ヘーゲルはその態度を批判したのである。美的に、直感的に知ったというのは、たんに表象に移しただけのものであるという。ただ知っているものに移しかえたとしても、それだけでは「わかる」ということにはならないという。「知られているからといって認識されているわけではない」という彼の有名な言葉は、この意味で語られているのである。
 ヘーゲルは、はっきりと「分析するということは表象として既に知っているという形式を棄てることだ」という。表象を根源的な要素(エレメント)に分解したその到達点は、固定し静止した規程だとはっきり述べる。そして、「この分けられたもの、非現実的なものこそ、本質的な契機をなすものだ」というのである。だから分けられたものは非現実的であり、死であると彼は明言する。無力な美的直観は悟性を忌避し死を直視しない。死んだものをしっかりととらえるには最大の力がいる。それが悟性の威力だという。そして、「死を忌避し、破壊から免れようとする生ではなく、死に耐え、死の中で自己を維持する生が精神の生だ」というのである。
 死を直視し、非現実的なものを、本質的な契機であると見てとらなければならないが、そのなかで自己を維持すること、否定的なものを直視し、そのもとに身を置くこと、そのうえで固定した規程を乗り越えて、一般的なものを現実化し生き生きさせることが必要だ、というのである。


【『「分ける」こと「わかる」こと』坂本賢三講談社現代新書、1982年)】


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