私の世代の男性であれば若い頃、落合信彦を読んだ時期があることだろう。そう。単なる寄り道だ。だが、活字の世界は奥が深い。寄り道同様に。
モータースポーツに興味がなくても、アイルトン・セナの名前を知る人は多い。日本では「音速の貴公子」と呼ばれ、世界では今尚「史上最高のF1ドライバー」と賞賛されている。
本書にはセナへのインタビューが収められているが、哲学のような深遠な響きがある。今は亡きセナの遺言に耳を傾けよう――
落合●しかし、皆が皆あなたのように素晴らしい家庭環境とチャンスに恵まれているわけではない。チャンスを全く与えられない者も多いではないか。
セナ●それは違う。皆平等にチャンスは与えられている。この世に生を受けたということ、それ自体が最大のチャンスではないか。
セナへの反論は簡単である。しかし、反論すればするほど自分の人生を貶(おとし)める結果となろう。「生」というものは、肯定的に捉えなければ前へ進み出さないのだ。
セナ●多くの人間がベストを尽くし、極限まで努力する。しかし、本当の努力はその極限からどこまで行けるかということなんだ。単に極限までの努力なら誰でもできる。しかし、それでは他の者と変わらない。勝負はそこから始まる。極限をどれだけ超えられるかに勝負の結果、または人生の成功、不成功がかかってくるんだ。
【同書】
限界からの挑戦――セナは楽観的に「生」を考えているわけではなかった。スピードが増せば増すほど、観測者が置かれた世界とは異なる時空となる。これが特殊相対性理論の主旨だ。アイルトン・セナは光に向かって走った。そして1994年5月1日、時速310kmでレース場の壁に激突し、4時間後にこの世を去った。ブラジルでは100万人以上の国民が亡き骸を迎え、国葬が行われた。合掌。